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2013年12月

石塚左玄と所縁の人々

○橋本綱常

石塚左玄は「私の生涯の大恩人は橋本綱常である。」と言っています。
橋本綱常は江戸末期の志士で安政の大獄で刑死した橋本左内の弟であり、ベルリンに留学して日本赤十字病院初代院長や東大教授等日本で最初の医学博士となる等日本の医学発展の功労者です。両者は家も近所で有り、両家の親も藩医と町医の枠を超えて密接な交流があり、石塚左玄を常に陰から支えたり助けたのが橋本綱常です。しかし橋本綱常も石塚左玄の写真の依頼文にあるように、石塚左玄の防腐法をお願いしたりしてある分野では石塚左玄を頼っています。

橋本綱常の手紙

橋本綱常の手紙

橋本綱常(福井市郷土歴史博物館蔵)

橋本綱常(福井市郷土歴史博物館蔵)

○橋本左内

安政の大獄で刑死になる前に、江戸から福井の伊藤友四郎等に手紙を書いています。
仕事に関する事や幕府から藩主松平春嶽への隠居謹慎の義憤が書かれていますが、宛先の伊藤友四郎
の娘督(こう)が石塚左玄の後妻となります。

橋本佐内からの手紙(福井県立歴史博物館蔵)

橋本佐内からの手紙(福井県立歴史博物館蔵)

○由利公正

石塚左玄を支持した郷里の大先輩で五箇条御誓文で知られる由利公正(1829~1909)福井藩士で藩の財政改革に取り組み、生前の坂本龍馬からの依頼もあり明治新政府でも財政を担当しました。五箇条の御誓文の素案を作り、明治四年に第4代東京府知事・明治五年岩倉具視等と欧州視察後子爵を経て貴族院議員となるなど明治の政治家

由利公正は郷里の大先輩ですが、両者の間には家族ぐるみの交流があり、それは残されている幾つかの書状が解き明かしてくれます。そして左玄の食育・食養業績を最も支援した一人でもありました。明治40年10月17日(当時の神嘗祭の日)に左玄は更に日本国民に向かって日本人としての正しい食生活を啓蒙推進すべく化学的食養会を立ち上げます。その会の賛成者として徳川達道伯爵を始めとして朝野知名の人士が少なからず名前を提供していますが、由利公正も15人の賛成者の一人として名を連ねています。私的交流のみならず、公正も行き過ぎた明治の洋風化食生活を心配して、左玄の提案した食養に期待し食養会の賛成者になりました。

由利公正からの手紙

由利公正からの手紙

 

○谷干城

明治の大物政治家でもあった谷 干城(1837~1911)土佐藩士で薩摩土佐同盟を結び、戊辰戦争で戦果を上げる等明治維新功労者の一人。西南の役で熊本鎮台司令官として奮闘。陸軍中将・士官学校長を経て第2代学習院院長を歴任後政治家として活躍、子爵となり貴族院議員を務める。

谷干城は同じ郷里の坂本龍馬を尊敬していましたが、明治の大物の思想は農本主義として現れていますが、この考えと相まって谷は左玄の主張する食養論に心酔していました。それを証する書状が残っています。横山嬢が谷に左玄への紹介状を書いて貰い左玄が衛生等について教えてやって欲しい依頼文です。横山嬢が直接左玄に会いに来た時の物であり、封筒は現存しますが郵便でないために消印がなく年号が分かりませんが左玄の食医や食養生について評判も高く当時の大物政治家の文からも食を含めて保健・衛生についても尊敬の念で見られるほどに高い評価であった事が想像されます。なお食養会発足では由利公正と同じく賛成者として夫婦共々支援しています。

谷干城の写真(国立国会図書館ホームページ)

谷干城の写真(国立国会図書館ホームページ)

○グリフイス

石塚左玄に化学的考察を教えたアメリカの恩人グリフィス(1843~1928)はアメリカペンシルバニア州で生まれ、藩の近代化と教育の向上を目指した福井藩に化学の教師として雇われ明治4年3月に来福、廃藩置県で同5年1月に上京、大学南校にて教授をします。

グリフィスは明治4年3月から福井藩校明新館において、理科実験室を設置して本格的に化学を教えたり更に語学や保健学までも教えています。
石塚左玄もグリフィスに化学や保健学等を習っていますがグリフィスに合わせるように上京しグリフィスの助手に採用されました。左玄が書いた本に『化学的食養長寿論』(明治29年出版)がありますが、化学という言葉をタイトルにも使用するなど常に化学的意識を持ち続けていましたが、そこにはグリフィスによる感化が大きかった事が認められます。
食養会機関誌にも『化学的食養雑誌』と名づけ、一番有名な『食物養生法』も一名化学的食養体心論とサブタイトルをつけるなど常に化学的考察を意識していました。
グリフィスに化学的考察を石塚左玄は習った事が左玄の学問の発展に大いに貢献しています。グリフィスが書いたグリフィス福井日記の中に、石塚左玄についてはIshizduka(ママ)として書かれています。

グリフィスの写真

グリフィスの写真

石塚左玄の功績

私たち生き物は何故食べるのでしょうか? この素朴な疑問を見事に左玄は解決してくれました。

左玄の弟子達は仏教用語の「身土不二」を使って左玄の訓えを普及しました。

即ち人間と自然は一体のものであると言う意味で、自分の命を考える事は地域・地球の健康も思う事であり、地球・地域の環境を考える事が自分の健康を思う事になります。自分の健康を大事に出来ない人は、環境に優しい行動も採れない人です。人の健康も地球の環境や健康も全ては繋がっているのです。環境を大上段で言われる人がいますが、先ずは身近なそして人生で大事な自らの健康を考える事が大事な筈です。

左玄の思想は、私達が住んでいる地域での正しいあるべき食生活法を教えてくれていますが、環境破壊も進む現代では、地域社会・世界・地球の健康と環境を思う予防医学と健康増進の医学と考るべきです。

変化のある四季を持つ日本の自然は世界一美しいとも言われますが、命の根幹である食の四季を無くして何が自然でしょうか?季節感でしょうか?と言いたくなります。

左玄の食の訓えが、私達の健康と地域の自然、環境をつくってくれる事を忘れてはいけないと思うのです。人が自然を守る事以上に、自然が人を守ってくれている事に感謝をすべきです。

我々は今まであまりにも愚かであったと思います。石塚左玄の117年前の強い願いを思いやりたいものです。そして石塚左玄の食の訓えは世界にマクロビオティックとなって、世界で最初の食の社会運動となって広められて行きました。特にアメリカやフランス等で長寿食・自然食・健康食の範疇を持ちながら発展してきています。

石塚左玄の食の訓え

石塚左玄はミネラルのNaとKの重要性から夫婦アルカリ論を述べて、その中に幾つかの食育・食養論をはめ込んでいます。私は左玄から学ぶべき事を大きく6点に整理しています。

その6点とも理解したり、実践する事は決して難しい事ではなく、常識的な事実ばかりです。以下に左玄の言葉で6点を整理します。

 

①.『体育・智育・才育は即ち食育なりと観念せしや』

教育の中で食育の重要性を初めて提起する。

②.『食()く人を生ずるものにして、即ち食能く(よく)人を長大(大きく)し、食能く(よく)人を(すこやか)

  にし(よわく)にし、食能く(よく)人を(なが)生き(いき)にし若死に(わかじに)するのみならず』

これを左玄は食養道と言っています。食は人のエネルギーになりますが同時に食は私たちの身体をつくっているのです。私たちの身体は食べたもので作られているわけで、この至極当然な事を忘れがちです。

 

③.『臼歯持つ人は粒食う動物よ』

人は何でも食べる雑食動物と学校では習います。しか左玄は、人は臼歯の数や顎の形状から雑食や草食や肉食ではなく主として穀物を食べる動物と考え、日本人はお米を食べるべきと言いました。

  人間 獅子・虎 牛・馬
歯の形 臼歯 ノコギリ歯 平歯
下顎の動き 前後左右に動く 横・斜めに動かない 横・斜めに動く
特 性 穀食 肉食 草食

 

  本数(親知らず含む) 構成比 特性
臼 歯

20本

62.5%

穀物の粒をすり潰す
門 歯

8本

25.0%

野菜・果実を食べる
犬 歯

4本

12.5%

魚・肉を切る
合  計

32本

100.0%

 

 

④.『なるべく菜類の皮肌を脱除せざるを良しとす。』

栄養は食べ物の一部分にあるのでなく食べ物全体にあるから、なるべくそのままを丸ごと食べるのが身体に良いと言いました。出来るだけ自然 のままで、皮をむかず、精製をせずに食べると言う事です。

食物は自らの身体を厳しい自然環境から守るために、一番外側の皮の裏に多くの抗酸化物質やアミノ酸等を持っています。ですから捨てる理由は全くありません。

砂糖は黒砂糖、酢は黒酢、白いパンより黒いパン、白いご飯より黒い玄米等精製をしない食に今すぐに変えていく事が望まれます。

 

⑤.『(にゅう)(ごう)(じゅう)(ごう)

近年、住んでいる土地の旬の物を食べること即ち地産地消が大ブームですが、左玄は入郷従郷の言葉を残しています。つまり住んでいる地域の旬の物を食べる事が最も自然で心身に優しく、また新鮮で栄養価値が高くより健康的になると教えているのです。しかしながら食の安全安心が揺らいだ時に、顔が見える地域の生産者が育てた作物を食べる事が安全安心につながるという事で地産地消がスタートしてきました。

入郷従郷とはそれと違って、人の健康を切り口にした食生活ですが、両者の目的は相違がありますが、結果は同じです。『春苦み夏は酢の物秋辛み、冬は脂肪と合点して食え』の道歌は、春の苦い食物は寒い冬からの目覚めとなり、酢は夏バテ防止であり、秋の辛みは食欲増進剤であり、寒い冬は脂肪で守ると言うこの歌は人と季節と旬の関係を言いあらわしているのですが、寒くなればコトコト煮込んだ野菜の煮物や鍋物が恋しくなります。自然の変化と人の生理は同調して動き、食物と人の関係は、要するに自然と人間の関係になります。そして旬の食材は人の体調を整え病気を予防する働きをするのです。

 

⑥.『恰も一家に於ける夫婦の如く、之を俗解すれば相持にて、所謂持ちつ持たれつと云う可き任務を有する』

簡単に言えば食は偏らず何でもバランスよく食べる事が大事と諭しています。左玄は食の陰陽論と夫婦アルカリ論という独自の理論を構築しました。ミネラルのKとNaのバランスが栄養吸収に大きな働きをすると考えたのですが、これについては、当時のまだ幼稚な医学や栄養学、そして未熟な科学的分析の中で導き出した結論と言う事を酌量しなければなりません。しかし先進国の栄養学である3大栄養素やカロリーだけではなくて、日本の食文化とミネラルの重要性を述べる独自の栄養学を提唱したことは素晴らしい事です。

努力家・勉強家の左玄

 明治元年に石塚左玄が蘭語で書かれた「天文書」を読んで書き写したものです。
 全部で約200ページ有りますが、30日間で読みあげて書き著しと伝わっています。
 石塚左玄はオランダ語とドイツ語を独力で習得をしました。
当時オランダ語の参考書は皆無であり、蘭語の辞書も超高価で一般人には手にする事は現実には無理な事でした。
石塚左玄は蘭語の医学書を借りて読みたかったのですが、17歳の若造には誰も耳を貸す事も手助けも有りませんでしたが、どうにか借りる事が出来た門外漢の天文書で蘭語の勉強を深めたのです。
現代では中学校・高校・大学と英語を義務教育でも学びますが、石塚左玄が勉強した当時とは大変に恵まれた教育環境になっています。英語の参考書もあり触れており、テレビやラジオでの英語教室や町の中に有り英会話教室でも簡単に安価で英語をマスター出来るようになりました。しかしその様な恵まれた環境下でも、磾ッ葉の日本人は英語の1ヵ国語も自分のものに出来ていないのが実情です。
江戸から明治に変わる大激動の時代に、勉強をするにはあまりにも劣悪な中でも外国語の2ヵ国語を手に下石塚左玄は真の意味で努力家であり、勉強家でありました。
石塚左玄からは現代の食生活を反省して食の訓えをしっかりと学ぶべきですが、17歳の(今なら高校3年生)勉学に対する熱い思いとその実践に是非とも学んでほしいと思います。

天文書1

天文書1

天文書2

天文書2

天文書3

天文書3

天文書4

天文書4

石塚左玄の生涯

石塚左玄は今の福井市で代々医師の家に生まれ、20歳まで福井藩の学校や病院で薬剤師や医師の勉強を行っています。
 嘉永四年(1851) 福井市子安町で町医泰輔の長男として生誕
 慶応三年(1867) 福井藩医学所に通学
 明治元年(1868)  福井藩医学校雇い
 明治二年(1869)   〃    読試補
 明治三年(1870) 泉病院 調合方勤務 (給録 12俵)
 明治四年(1871) 泉病院 診察方調合方勤務・グリフィスに学ぶ(給録 20俵)
 明治五年(1872) 上京後 東大南校でグリフィスの助手
 明治六年(1873) 薬剤師と医師の資格取得
 〃   (1873) 文部省にてマルチンの助手
 明治七年(1874) 陸軍軍医試補となる。 結婚
 明治九年(1876) 長女文枝誕生
 明治十年(1877) 西南戦争従軍
 明治十三年(1880)「飲水要論」発表
 明治十五年(1882) 次女本枝誕生
 明治十八年(1885) 長男 右玄誕生
 明治十九年(1886) 妻死亡
 明治二一年(1888) 伊藤督と再婚
 明治二八年(1895) 日清戦争従軍
 明治二九年(1896) 陸軍少将薬剤監で陸軍退職
 〃         「化学的食養長寿論」発表 石塚食療所開設
 明治三一年(1898) 「食物養生法」を発刊
 明治四十年(1907) 食養会発足左玄が顧問
 明治四二年(1909) 58歳尿毒症で死亡

正食クッキングの模様

正食クッキングの模様を写真でご紹介いたします。

CIMG0437

正食クッキングの模様 2

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正食クッキングの模様 1

CIMG6614

AOSSAで2013年6月2日に開催されたエコカレッジふくいでの料理教室の模様 2

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AOSSAで2013年6月2日に開催されたエコカレッジふくいでの料理教室の模様 1

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