○橋本綱常

石塚左玄は「私の生涯の大恩人は橋本綱常である。」と言っています。
橋本綱常は江戸末期の志士で安政の大獄で刑死した橋本左内の弟であり、ベルリンに留学して日本赤十字病院初代院長や東大教授等日本で最初の医学博士となる等日本の医学発展の功労者です。両者は家も近所で有り、両家の親も藩医と町医の枠を超えて密接な交流があり、石塚左玄を常に陰から支えたり助けたのが橋本綱常です。しかし橋本綱常も石塚左玄の写真の依頼文にあるように、石塚左玄の防腐法をお願いしたりしてある分野では石塚左玄を頼っています。

橋本綱常の手紙

橋本綱常の手紙

橋本綱常(福井市郷土歴史博物館蔵)

橋本綱常(福井市郷土歴史博物館蔵)

○橋本左内

安政の大獄で刑死になる前に、江戸から福井の伊藤友四郎等に手紙を書いています。
仕事に関する事や幕府から藩主松平春嶽への隠居謹慎の義憤が書かれていますが、宛先の伊藤友四郎
の娘督(こう)が石塚左玄の後妻となります。

橋本佐内からの手紙(福井県立歴史博物館蔵)

橋本佐内からの手紙(福井県立歴史博物館蔵)

○由利公正

石塚左玄を支持した郷里の大先輩で五箇条御誓文で知られる由利公正(1829~1909)福井藩士で藩の財政改革に取り組み、生前の坂本龍馬からの依頼もあり明治新政府でも財政を担当しました。五箇条の御誓文の素案を作り、明治四年に第4代東京府知事・明治五年岩倉具視等と欧州視察後子爵を経て貴族院議員となるなど明治の政治家

由利公正は郷里の大先輩ですが、両者の間には家族ぐるみの交流があり、それは残されている幾つかの書状が解き明かしてくれます。そして左玄の食育・食養業績を最も支援した一人でもありました。明治40年10月17日(当時の神嘗祭の日)に左玄は更に日本国民に向かって日本人としての正しい食生活を啓蒙推進すべく化学的食養会を立ち上げます。その会の賛成者として徳川達道伯爵を始めとして朝野知名の人士が少なからず名前を提供していますが、由利公正も15人の賛成者の一人として名を連ねています。私的交流のみならず、公正も行き過ぎた明治の洋風化食生活を心配して、左玄の提案した食養に期待し食養会の賛成者になりました。

由利公正からの手紙

由利公正からの手紙

 

○谷干城

明治の大物政治家でもあった谷 干城(1837~1911)土佐藩士で薩摩土佐同盟を結び、戊辰戦争で戦果を上げる等明治維新功労者の一人。西南の役で熊本鎮台司令官として奮闘。陸軍中将・士官学校長を経て第2代学習院院長を歴任後政治家として活躍、子爵となり貴族院議員を務める。

谷干城は同じ郷里の坂本龍馬を尊敬していましたが、明治の大物の思想は農本主義として現れていますが、この考えと相まって谷は左玄の主張する食養論に心酔していました。それを証する書状が残っています。横山嬢が谷に左玄への紹介状を書いて貰い左玄が衛生等について教えてやって欲しい依頼文です。横山嬢が直接左玄に会いに来た時の物であり、封筒は現存しますが郵便でないために消印がなく年号が分かりませんが左玄の食医や食養生について評判も高く当時の大物政治家の文からも食を含めて保健・衛生についても尊敬の念で見られるほどに高い評価であった事が想像されます。なお食養会発足では由利公正と同じく賛成者として夫婦共々支援しています。

谷干城の写真(国立国会図書館ホームページ)

谷干城の写真(国立国会図書館ホームページ)

○グリフイス

石塚左玄に化学的考察を教えたアメリカの恩人グリフィス(1843~1928)はアメリカペンシルバニア州で生まれ、藩の近代化と教育の向上を目指した福井藩に化学の教師として雇われ明治4年3月に来福、廃藩置県で同5年1月に上京、大学南校にて教授をします。

グリフィスは明治4年3月から福井藩校明新館において、理科実験室を設置して本格的に化学を教えたり更に語学や保健学までも教えています。
石塚左玄もグリフィスに化学や保健学等を習っていますがグリフィスに合わせるように上京しグリフィスの助手に採用されました。左玄が書いた本に『化学的食養長寿論』(明治29年出版)がありますが、化学という言葉をタイトルにも使用するなど常に化学的意識を持ち続けていましたが、そこにはグリフィスによる感化が大きかった事が認められます。
食養会機関誌にも『化学的食養雑誌』と名づけ、一番有名な『食物養生法』も一名化学的食養体心論とサブタイトルをつけるなど常に化学的考察を意識していました。
グリフィスに化学的考察を石塚左玄は習った事が左玄の学問の発展に大いに貢献しています。グリフィスが書いたグリフィス福井日記の中に、石塚左玄についてはIshizduka(ママ)として書かれています。

グリフィスの写真

グリフィスの写真