「食育」という言葉と「食育運動」の原点 今でこそ「食育」と言う言葉が世間に注目されるようになって、食育基本法なる法律もできました。学校でも給食を利用した食育的授業が行われるようになり、「食育」の認知度は高くなっています。
広辞苑に初めて「食育」なる言葉が掲載されたのは食育基本法ができた平成17(2005)年の3年後です。では、「食育」なる言葉は一体いつごろから使われ、またその背景はどのようなものだったのでしょうか。
明治29(1896)年、今から117年前に、当時45歳だった石塚左玄は陸軍軍医を退職して、著書『化學的食養長寿論』を著しました。そして、その中に「食育」と言う言葉を日本で初めて本の中に書き著しました。「学童を有する都会魚塩地の居住民は、殊ことに家訓を厳にして、体育・智育・才育は即ち食育なりと観念せしや」〝子供にとって一番大事な教育は健康と命に関わる食育で、食育はあらゆる教育の根幹であり、食育は親が行う家庭教育である〟と書いた石塚左玄は食育の祖と言われています。
その7年後にベストセラーとなった村井弦斎著『食道楽』の中で「食育」の言葉が使われ、広まっていきました。 石塚左玄は明治38年帝国食育会を創設、2年後にそれを解散して新たに化學的食養会を設立します。これを機に本格的に食養思想の全国普及を図っていきます。その時の機関誌が『化學的食養雑誌』です。月刊誌で多い時には100ページを超えるものでした。誌面に食育の言葉はなくなり、食養に置き変わっています。左玄は特に「化學的食養法」を訴えたいために食養という言葉を前面に出したのです。
平成17年になって国はようやく、先進国日本ならではの、食にまつわる課題を個人も共有すべきと判断して、食育基本法を制定しました。食育運動は石塚左玄によって117年前にスタートをして、その11年後には日本全国へ普及を開始し、今から8年前に食育基本法となってやっと左玄の願いが実現された感があります。しかし、実際に法律ができても石塚左玄が真に望んだ食育は、まだまだこれからといったところです。「食源病」の原因となった現代の飽食が、医食同源、薬食同源といえる食事となって、初めて石塚左玄の願いが叶えられることになります。食育運動は8年前から始まったのではありません。石塚左玄を始めとする多くの人たちの推進してきた、食育運動の歴史の長さと重さを感じずにはいられません。ここに、石塚左玄が唱えた食育の大きな意義があると思います。