1. 現代の救世主石塚左玄に食の心を学ぶ
 今や世の中は正に食育ブームです。そして各地で食育推進大会として食育そのものが大会やイベントとなり、所によっては地域おこしの材料にさえなっています。確かに現在の食生活は乱れ切っていますが、しかし食育と言う言葉や4年前に出来た食育基本法なる法律をもって『朝食を食べましょう』とか『親子で一緒に料理を作りましょう』などと言わなければならない事は実に残念です。
乱れた現代食を飽食と言いますが、漢字で書くと放食・崩食・泡食・呆食・砲食などと表現されています。どの漢字も今の日本食を適格に表しています。そしてその日本食は無家庭・無関心・無国籍・無季節・無秩序・無安全・無安心・無原形・無平衡です。無が頭につく状況です。(無がついても無添加とか、無農薬はいい意味合いですが。)
人により寿命は違いますから一概には言えませんが私たちは生涯に約9万回の
食事をする事になります。9万回もの大きな数字が私たちの日々の健康を左右するのです。ですから食は単に生きるためではなく、有意義な人生を健康で過ごすためにも食の大切な機能があります。然るに現実はその逆で食によって病気を生んでいます。現代病とか裕福病とか言われますが生活習慣病(かっては成人病と呼ばれましたが、大人だけでなく子供にも発症するので表現が変えられました)、その際たるものは糖尿病ですが、厚労省によれば糖尿病とその予備軍が今や2000万人になりつつあり、大人の5人から6人に一人が対象となっています。
そのために諸悪の根源である肥満・メタボリックシンドロームを予防する事に今国をあげて努力しています。
糖尿病などの重度の生活習慣病は長期間かかって発症するものであり、それに至るまでにはこれと言った自覚症状もなく、自分で体調が異常であると認識した時には既に手遅れになっていると言われます。本人には病気進行中にあるにもかかわらず、なかなか自覚し難い事が悪化の大きな要因となっています。病気進行中でありながら病気と言う自覚・感覚がありませんから、生活習慣病は自分の事でなくて他人事になっています。
そして相応に悪くなって初めて自分の体調異変に気づきますが、その時には既に遅いのです。

そこで生活習慣病・メタボリックシンドローム予防のためにも最も重要となる食を今一度自分のために、特に将来ある子供たちのために見つめ直さなければなりません。
しかしなんと今から100年も前に日本人の健康を憂慮して、国民に食の重要性を啓蒙した人が存在しました。
食育の祖と呼ばれている石塚左玄ですが明治時代世はまさに文明開化の真っ只中、石塚左玄は日本で初めて『食育』なる言葉を本に書いて『食育』と『食』の重要性を提言しました。食育こそ全ての教育の根幹であり、子供にとってあらゆる基礎となる非常に大事な事であると訴えました。子供にとって『食育』は親が家庭で行う最優先事項であると説きました。『食育』なる言葉を本に用い、食の大事さを説き、石塚食療所という診療所を開設して食の実践指導を行い、食を大事にし、左玄の思想が食で悩んでいる現代社会に十分に示唆し答えを与えてくれているからこそ食育の祖とも食育の魁とも称されているのです。私は左玄の食育・食養論をとり入れて施行された食育基本法生みの親とも思っています。
そこで石塚左玄の生い立ちや彼の幅広い交流・私生活もつまびやかにして、彼が進めた食育論の解明し食育の先人としての左玄を紹介していきます。希望にあふれる子供達未来のためにも今早急に見直しをしなければならないと言われている家庭での食の崩壊の危機に参考なれば幸いに思います。前述したように今は病気にならないための予防が大事です。
消防車は火事の消火の仕事が本業でなくて、火事を起こさせないように啓蒙啓発するのが本来の業務です。警察は交通事故の現場検証をするのが仕事でなくて、交通事故が発生しないように市民に注意をして、事故を無くするのがやるべき仕事です。
昨今話題のメタボリックシンドローム改善の柱は第1に食生活を含む生活習慣の見直しです。又その事が老年時の介護予防にもつながります。単に平均寿命の長さではなく、心身ともに元気で健康で生涯を過す健康寿命がたった1回しかない人生に求められています。
健康長寿と言う言葉は、健康であり、長生きをすると言う二つの人間の願望を表わしています。健康長寿のどちらが欠けても駄目なのです。
石塚左玄の人物像なり彼が提案した食育論は次回以降に譲るとして、石塚左玄の名前が本格的に知られるようになってまだ数年しかたっていません。食育基本法なる法律が平成17年6月10日に成立した事によって全国の食育関係者が石塚左玄を知る所となりました。
この法成立で、石塚左玄が現代に蘇り関係者に注目される事となったのです。
何故今石塚左玄なのか?との問いには食育基本法の内容が正に石塚左玄の食育論実践にあるからです。その法律が目指しているのは飽食や崩食と揶揄される現代の食生活を本来の健全な食生活に引き戻す推進にあります。
日本の食の歴史で食生活大変化があったのは、明治の肉解禁を初めとする食の洋風化導入の時期と過度の洋風化が進み、それにより病気を生んでいる現代です。当時と現代の食の背景には洋風化・欧米化という共通語があります。
そのような食生活の大変革だからこそ石塚左玄の食育には説得力があるのかも知れません。しかし、石塚左玄も食育基本法も決して特別な食生活を推奨しているわけではありません。
本来のあるべき家庭での食事と家族の絆を中心とした楽しい食生活を指しています。
私が思うに食・食生活が何故にこのように異常になったのか?
最大の理由は親たちが日々の食生活を軽んじている現代社会の風潮が問題でないでしょう
か?
心してつくるべきはずの毎日の食事を、時間がないからとか仕事が忙しいからとかの理由でついついおろそかにしてしまいがちで、本来の正しい食生活が難しくなり、あらゆる中で最優先事項であったはずの食がそうでなくなった事です。生命を維持するのに最も重要な食が現代社会における様々の理由でおろそかにされているのです。
家庭生活で子供達にとって一番大事な事は何か、そして何時でもどこでも好きな物をたらふく食べれる豊かな食生活になった反面失くしたものは何か今一度真剣に考えるべきです。
もう1点は洋風化欧米化の食生活が日本型食生活より優っていると勘違いしてその様に実践していることです。石塚左玄は『日本人には日本人にあった食生活がある。地域の農産物・海産物が地域に住む人の食になり、地域に住む人の心と身体を作り養ってきた。だから地域に住む人は地域の農産物・海産物を食する事が自然で身体に優しくより健康的で地域には地域に特有の食生活が大事である。』と言いました。
そもそも食は文化そのものです。文化はその地域に根ざした地域固有のものです。その地域の美味しい物を食べようとするならば、その地域で食する事が大事です。それを何時でもどこででも食べようとするから、季節を無視して世界各地から輸入したり、原形を留めないまでに加工したり、味付けや保存のために多くの添加物を使用しました。現代の私たちの周囲の食生活で、食品の種類・数は驚くほどに増加し、消費者の欲望をこれでもかと誘いますが、その一方でその食品の品質は毎年低下している感がします。
今日本型食生活は全世界から最も注目されているヘルシーな食です。それは栄養バランス的にも優れている食と言えるからです。
石塚左玄は現代に生きる私たちの救世主です。今こそ石塚左玄という先人が教えてくれた大切な言葉を現代版に置き変えて学ぶ価値が多いにあると思います。

写真  26歳の写真

食育の祖 石塚左玄物語
2. 先見性満ちた左玄の生涯

今を去ること157年前 嘉永四年(1851)2月4日に福井市子安町(現在の宝永4丁目付近)に町医師泰輔の長男(母は由留)として生まれました。生まれた時代は、折しも徳川封建制度が終わりを告げようとする江戸末期から明治を迎えようとしているさ中で、当時の日本には諸外国からの開国要求が頻繁に発生し騒然としていた頃です。左玄の生家に近い幕末の志士橋本佐内が安政の大獄で刑死するのは左玄誕生から8年後の事です。石塚家と橋本家は近所のよしみに留まらず、町医と藩医(橋本家は代々藩医)を乗り越えた両家の交流がありました。死体の解剖が許される時になっても町医師には許可が出ませんでしたが、藩医と町医が合同でする事で許されたのが文久元年(1861)です。左玄の伯父である町医師石塚泰庵が解剖を許されていますが、それは左内の父長綱の支援援助と言われています。左内の弟であり、陸軍軍医総監、大学南校(東大)教授、初代日本赤十字病院院長、東宮拝診御用を勤めた橋本綱常を左玄は「綱常殿は私の生涯の大恩人である」と言っています。綱常は明治の医学発展の功労者の最たる人物ですが、左玄の後ろ立てとなり常に支援をしています。そして綱常も左玄の能力を高く評価して彼の力を借りている点もあります。
左玄の名前が福井藩関係の文書に最初に出てくるのは慶応三年(1867)で、そこでは福井藩の医学所にて医師の勉強のために通学している事が見受けられます。
江戸時代から明治に変わった元年には福井藩医学校雇いとなり、明治二年七月には読試補となっています。その後藩病院にて薬剤師としての調合方勤務や、医師としての診察方の勤務をしています。然るに明治四年の中央集権政策の廃藩置県により、福井藩知事松平春嶽候も上京し、藩病院も12月には廃院となります。
当時福井藩が雇いとしてアメリカから福井に来て化学や語学等を教えていたグリフィスが廃藩置県により福井を去り、南校(後の東京帝国大学)の教授になって上京しました。それまでに左玄は昼は病院で働き夜はグリフィスを訪ねて保健学や化学を教わっています。その恩師が福井を去ることを知った左玄はグリフィスの後を追うように(実際は左玄が先に上京)東京へ出て、グリフィスが南校の教授になるや左玄はグリフィスの助手として働いています。
左玄は後に多くの書物を書いていますが、そのタイトルに化学という文字をたびたび引用しているのが見受けられます。もっともポピュラーな彼の『食物養生法』も化学的食養体心論と副題をつけています。左玄は常に西洋の医学・栄養学・保健学を対極において考えています。しかし西洋医学等を単に否定したのでなくて、彼は日本古来の漢方的医学を化学的に基礎付け、化学的に裏づけされた漢方的医学を基礎にした食での治療を目指したのです。その意味でグリフィスが左玄に与えた化学的考察の影響は計り知れない大きいものがあります。
しかし理由は明確ではありませんが、短期間でグリフィスの研究室を離れます。
そして約1年の間に左玄は猛勉強をして正式に医師と薬剤師の資格を取得します。
その後彼は文部省医務局(東京大学医学部)でお雇い教師のマルチン教授の下で助手をします。明治七年23歳の時陸軍に軍医試補として採用されて、ようやく本格的な生活の糧を得ることになり結婚します。明治十年には西南戦争に従軍して熊本・長崎の軍団病院で薬剤官として働きました。このときの上司は橋本綱常であり、軍医として仕事の枠を越えて同郷の左玄を個人的に支援続けました。
西南の役従軍直前に東京の写真館で撮った写真(1月号の掲載写真)は、26歳の若さに満ちあふれその顔は現代にも通じるハンサム青年です。しかし彼は若年時から、ヘブラ病と言われる大人になっても治らない頑固な掻痒を伴う皮膚病に患っており、腎臓も患う等軍医でありながら時には患者でもあり入退院を繰り返していました。その間の明治二八年には日清戦争で朝鮮半島に従軍をしています。
病気の事により明治二九年に陸軍少将薬剤監の予備役となり、陸軍を退職しました。陸軍薬剤師では少将が最高の職位です。
左玄を食医と言わせしめ程に左玄が食を大事にしたのは正に彼の持病に理由があるのです。
左玄は病気だったからこそ、健康と食について考え実践し、食の力・食の美・食の誠を追求し続け、食が心と身体の健康を左右しているから正しい食生活の重要性を国民に知らせしめようと彼の人生を捧げました。

家庭では長女が明治九年に生まれ、次女が十五年、左玄の後継者となる長男右玄が十八年に生まれ順風そのものでしたが、十九年に妻が死亡し二一年に福井の伊藤督(こう)と再婚します。
督婦人も素晴らしい内助の功を発揮し、左玄亡き後も前妻の長男を助けて左玄の食養・食育論を進めました。軍医退役後は東京の市谷に石塚食療所という診療所を開設して、望診法という独自の診察を行い、そして患者に食指導を行い治療を行ったのです。医師の処方箋には薬の名前が書かれますが、彼の処方箋には食事内容や食事方法が書かれてありました。それ故に患者は左玄を食医と呼んだのです。左玄は昆布・蒟蒻・大根・蓮根を多いに勧めたそうで、左玄を大根医者と比喩したとも言われています。彼の診療所は毎日多くの詰め掛ける患者でにぎわったと伝えられています。
そして明治四十年に多くの賛同者の下に食養会が発足し、左玄はその顧問になります。
食養会は化学的食養雑誌を機関誌として毎月発刊します。毎月の100ページ近い機関誌は彼の食への熱い想いと力強いパワーを彷彿させます。機関誌冒頭には食養会の趣旨を、『人生最大の基礎たる生命及び精神たるところは、食をおろそかにおいては原因を発見する能はず。・・・一身一家の健全を計りて正食的の人格を成育し、幾許か国家の為貢献する』とあります。
明治四二年八月、地元の強い要請に応えて、病気の身でありながらも、静岡に講演に赴き、その講演途中に倒れてしまいました。ようやくにして自宅に戻るもそれ以降は寝たきりで、十月十七日に尿毒症のために永眠しました。当時多くの者達に見送られて、浅草の浄土宗光明寺に葬られました。そこで彼は静かに眠っていますが直ぐにでも起きて乱れた食生活に一喝をしたいと考えているでしょう。本年は左玄死後満100年の記念すべき節目の年でもあります。

石塚左玄の主要略歴

 嘉永四年(1851) 福井市子安町で町医泰輔の長男として生誕
 慶応三年(1867) 福井藩医学所に通学
 明治元年(1868)  福井藩医学校雇い
 明治二年(1869)   〃    読試補
 明治三年(1870) 泉病院 調合方勤務 (給録 12俵)
 明治四年(1871) 泉病院 診察方調合方勤務・グリフィスに学ぶ(給録 20俵)
 明治五年(1872) 上京後 東大南校でグリフィスの助手
 明治六年(1873) 薬剤師と医師の資格取得
 〃   (1873) 文部省にてマルチンの助手
 明治七年(1874) 陸軍軍医試補となる。 結婚
 明治九年(1876) 長女文枝誕生
 明治十年(1877) 西南戦争従軍
 明治十三年(1880)「飲水要論」発表
 明治十五年(1882) 次女本枝誕生
 明治十八年(1885) 長男 右玄誕生
 明治十九年(1886) 妻死亡
 明治二一年(1888) 伊藤督と再婚
 明治二八年(1895) 日清戦争従軍
 明治二九年(1896) 陸軍少将薬剤監で陸軍退職
 〃         「化学的食養長寿論」発表 石塚食療所開設
 明治三一年(1898) 「食物養生法」を発刊
 明治四十年(1907) 食養会発足左玄が顧問
 明治四二年(1909) 58歳尿毒症で死亡

  
写真  晩年の左玄    菩提寺浄土宗光明寺        左玄のお墓          

食育の祖 石塚左玄物語
3. 福井を巡る石塚家
石塚家系図
                  藤

衛 
 
               泰        藤(①)
        兵
庵        衛
  
             泰   泰(③)     藤
             輔   庵      左
                        衛 
                        門
             左    佐
             玄    久     卯
                        一
                        郎
             右   本   文
             玄   枝   枝
                        藤
                        兵
祐 糠 睦 左    玄き         衛
四   喜     よ
  吾 郎 子 二     し
                        藤(②)
英  珠          兵
                        衛
          夫  恵          

① 藤兵衛 大野市萩ケ野の素封家で弟泰庵が福井にて分家するにあたって、本家分家の続く  
限り応分の米を提供すると約束する他、石塚家伝来の阿弥陀木像を贈る等大変に謹厳な兄であった。この約束は2代目泰庵が明治25年亡くなるまでの約100年に亘って実行され続けている。尚藤兵衛は石塚家の代々の称号である。
      天保二年(1831)に死亡するが、藤兵衛のお墓が今も大野市萩ケ野に残っており、江戸時代分家の石塚憲治氏が守り続けている。
② 泰庵  福井に医師として分家移住する。父藤兵衛も医師であってその名前が泰庵であり、慈悲あふれる父親から名前を貰っている。父、兄に似ず豪放、大胆で進歩的な性格で医業を始めている。
③ 藤兵衛 (1830~1904)大野市萩ケ野の石塚家に天保十年生まれ 藤兵衛の長男 明治三十七年死去。
      明治十四年の福井県設置での最初の大野郡からの県会議員となる。
      農業、酒造業、鉱山業にも着手する。
④ 泰庵  父泰庵の長男で、性格は父以上に新進的であり、生涯独身を貫く。
      そのために石塚家の医業を弟泰輔の男子に期待していたが、その子が石塚左玄である。橋本左内の父長網と親しく左内に依頼して左玄の名付け親となってもらった。町医師としても、人体解剖などで活躍をしている。

石塚左玄は嘉永四年(1851)に町医石塚泰輔の長男として福井市の子安町(現在宝永四丁目付近)に生まれました。石塚家は代々医業を職とし左玄の父、祖父とも町医でした。(父の泰輔は町医から藩医の御目見医師に取り上げられています。)左玄も医師と薬剤師の二つの資格を持ち陸軍薬剤官になりましたが、腎臓病を患ったために予備役となりその後は、牛込区市ケ谷々町(現在は新宿住吉町)に石塚食療所を開設しました。そこで望診法なる診察を行い、食事の見直しを中心とした治療で、食医とも言われた左玄の元には早朝から多くの患者が列をなしての大混雑であったと伝えられています。
左玄が58歳で尿毒症により亡くなった時には、多くの人達に見送られて、都会の喧騒さを忘れさせるような浅草にある静寂な菩提寺浄土宗光明寺に葬られました。
時には食を重んじた左玄としてはあまりに、寿命が短か過ぎるのではとの質問を受ける時があります。確かに現代社会の平均寿命は男性で79歳・女性で86歳となっており、それと比較すれば58歳は低い数字となります。しかし前述のように彼は普通の人とは違って腎臓病を患っていました。しかし左玄は病気であったからこそ食を大事にしたのです。もし彼が健康体であれば、食育の祖にはならなかった可能性が大です。多くの一般の人は、健康でいる時には健康を全く意識しませんが、いったん病になると「健康は一番」とか「これからは健康に注意しよう」と考えるのですが、治療が終わって健康体になり、病院を退院するとすぐに健康の重要性を忘れてしまいます。
厚生労働省の資料では、明治42年の平均寿命は男で42歳であったとあります。
又徳川幕府15人の歴代将軍の平均寿命は50.5歳になります。将軍が食べる食は当時における最高レベルを維持していたと思われますが、それらを勘案すると左玄も長寿ではありませんでしたが病気の身である事等から言えば平均以上の生涯を過ごしたと言えるでしょう。
左玄の死亡時、長男の右玄は24歳でしたが、母親である督の手助けで石塚食療所を引継ぎましたが、その右玄も41歳の若さで心臓病により突然死をしました。当時孫の玄(きよし)は若干13歳と若い事もあって、石塚家をめぐる関係者とのごたごたもあり、結局は世田谷に移転を余儀なくされます。
しかし督の尽力もあり、やがて玄も医師となり診療所を開設しました。「患者が近所の大学生であれば、催促なしのある時払いでいいと言って診察した大半は回収も出来ず、赤ひげ先生の異名でとおっていた」とひ孫の珠恵は当時を振り返っています。石塚家では正月の雑煮は東京在住にも拘わらず、味噌汁にかぶらを入れという東京とは全く異なった雑煮を食べた思い出があるそうです。玄は『先祖が生まれ育った土地福井の伝統的な素晴らしい料理』と説明をしていたそうです。味噌の大豆は畑のお肉と言われるほどに素晴らしいタンパク質を持っています。冬の代表的野菜のカブラは福井のどこでも作られていました。誰もが簡単に手に入る身近にある旬のものを利用し、かつお節をふりかけて陰陽のバランスを取ったのが福井の雑煮です。
その玄も東京都区会議員を努めるなど超多忙のために昭和60年72歳で心臓病により
診察室の中で倒れました。歴代石塚家の医師は地域と患者のために全力で取り組み、医者の不養生とも言える病いで生涯を終えています。今はひ孫である珠恵の弟英夫が左玄の医業を継いで医師となり活躍しています。
そもそも石塚家は大野市萩ケ野(はんがの)(福井市から直線で30km東方にある盆地状の地域)に住み急峻な地区の開墾開発を進め地区の有力者となり、同時に漢方医としても慕われていたようです。一部の本に坂井市春江町の石塚地区出身とありますが、石塚の名前は同じですが全く関係ありません。
石塚左玄の祖先が大野市萩ケ野出身である事は、『石塚家々譜』や祖先のお墓が残っている事及び大正時代に転出されるまで石塚家の人達が住んでおり又子孫のお話から間違いない事実と確信出来ます。
石塚家は歴代「藤兵衛」を名乗っていて、天保二年に73歳で亡くなった藤兵衛(①)の夫婦墓(写真)が萩ケ野にひっそりと建っています。石塚家は大正時代に故あって萩ケ野を去る事になりました。その時江戸時代に分家した石塚與右衛門にゆくゆくまでの墓守を頼みました。現在も尚與右衛門の子孫である石塚憲治氏が篤く守り続けています。幾多の変遷後明治十四年の福井県設置により大野郡から石塚藤兵衛(②) (天保十年~明治三十七年)は始めての県会議員にも選出されていますがこの藤兵衛は農業、酒造業や鉱山業等幅広い分野で活躍をした素封家で地区の実力者でもあったようです。
そして藤兵衛(①)の弟泰庵が福井の春山下町(現在の春山1丁目付近)に江戸末期大野市萩ケ野から分家して医業を始めています。
この分家した泰庵には二人の子供がおり、長兄も通称泰庵(③)と言って医業を継いでいます。
しかし石塚家は長兄が生涯独身をとおしたため10歳下の弟泰輔の長男左玄があとを継ぎました。
左玄にとって伯父の泰庵は福井で町医が初めて解剖を許された文久元年(1861)に男屍を解剖しました。その時の解蔵図記として絵が残っています。泰庵は司砺の立場で参加していて藩からは相応に認められていた町医であったようです。それには近所の橋本佐内の父長綱の支援も存在しました。明治になって泰庵は藩病院に書記として勤務し、泉病院では給録16俵と人事記録があります。その後文化三年(1806)福井藩創立の済世館を中心とした研究会『済世会』のメンバーにもなり活躍しましたが、その済世館も廃藩置県で県所有となり明治20年には廃校となりました。

写真  大野市の藤兵衛のお墓写真  2007-5,19 No1472
    督未亡人と右玄夫婦      CD 03

4月号  食育の祖 石塚左玄物語
4. 左玄を支持・支援した明治の偉人達
時は明治 波乱に富んだ時代の中で、ややもすれば復古的食生活とも言える左玄の提案を無視する人達も者もおりました。しかし逆に彼を心底支援する要人も多く存在しました。福井藩出身者も数多く活躍した明治政府ですが、同郷の偉人達も左玄を支持していました。今月は左玄の薦めた日本伝統の食生活に心酔し左玄の活動に大きな力を与えた所縁の人物を紹介します。
○左玄生涯の大恩人  明治医学発展の大功労者橋本 綱常 ※1
※1 橋本綱常(1845~1909) 安政の大獄で刑死した橋本左内の弟であり、福井藩医でドイツ留学後、万国赤十字条約加盟のために奔走。陸軍軍医総監、陸軍省医務局長等を経て東京大学教授、初代日本赤十字病院院長、東宮拝診御用などを歴任近代医学の最大の功労者である。

石塚左玄の生涯に影響を与えた人物を語る時に最初に登場するのは橋本佐内の弟綱常です。左玄の人生の大半を綱常が常に後ろ盾になってくれたからこそ左玄の功績があり、左玄は『今私があるのは、綱常候のおかげ』と公言しています。両者の実家も極めて近く、左玄が初めて上京した時転がり込んだのは綱常の家であり、軍医になったのも綱常の助言もあったからであり、西南の役でも左玄の上司で綱常も従軍していたりと常に左玄の影に綱常がいたのです。しかし綱常も左玄の有能さを認めていました。赤十字病院長であった綱常が、当時防腐法の権威者と言われていた左玄に遺体防腐処理を依頼したのが写真1(明治25年)の書状です。
その内容はかねてより入院中だった山田穣(ゆたか)貴族院議員(1842~1892)が亡くなり遺族が郷里まで遺体を持って帰りたいと懇願しているので、遺体が腐らないように処理をしたいという事でした。左玄は陸軍時代の明治23年頃に独自で工夫した死体貯蔵法を開発した経歴を持っていました。左玄は食養学のみならず防腐法等の医学的処置にも優れた技術を持っていたことが伺われます。

写真1   綱常が左玄にあてた書状 CDの06番
  1-1 橋本綱常肖像     添付ファイル 1490

○ 左玄を支持した郷里の大先輩 五箇条御誓文で知られる由利公正 ※2
 ※2 由利公正(1829~1909)福井藩士で藩の財政改革に取り組み、生前の坂本龍馬からの依頼もあり明治新政府でも財政を担当しました。五箇条の御誓文の素案を作り、明治四年に第4代東京府知事・明治五年岩倉具視等と欧州視察後子爵を経て貴族院議員となるなど明治の政治家

由利公正は郷里の大先輩ですが、両者の間には家族ぐるみの交流があり、それは残されている幾つかの書状が解き明かしてくれます。そして左玄の食育・食養業績を最も支援した一人でもありました。明治40年10月17日(当時の神嘗祭の日)に左玄は更に日本国民に向かって日本人としての正しい食生活を啓蒙推進すべく化学的食養会を立ち上げます。その会の賛成者として徳川達道伯爵を始めとして朝野知名の人士が少なからず名前を提供していますが、由利公正も15人の賛成者の一人として名を連ねています。私的交流のみならず、公正も行き過ぎた明治の洋風化食生活を心配して、左玄の提案した食養に期待し食養会の賛成者になりました。

写真2   化学的食養雑誌 明治40年 第壱号 添付ファイル 2234
  2-1 公正の写真             添付ファイル ワード

○明治の大物政治家も一目を置く 谷 干城 ※3
※3  谷 干城(1837~1911)土佐藩士で薩摩土佐同盟を結び、戊辰戦争で戦果を上げる等明治維新功労者の一人。西南の役で熊本鎮台司令官として奮闘。陸軍中将・士官学校長を経て第2代学習院院長を歴任後政治家として活躍、子爵となり貴族院議員を務める。

谷干城は同じ郷里の坂本龍馬を尊敬していましたが、明治の大物の思想は農本主義として現れていますが、この考えと相まって谷は左玄の主張する食養論に心酔していました。それを証する書状が残っています。横山嬢が谷に左玄への紹介状を書いて貰い左玄が衛生等について教えてやって欲しい依頼文です。横山嬢が直接左玄に会いに来た時の物であり、封筒は現存しますが郵便でないために消印がなく年号が分かりませんが左玄の食医や食養生について評判も高く当時の大物政治家の文からも食を含めて保健・衛生についても尊敬の念で見られるほどに高い評価であった事が想像されます。なお食養会発足では由利公正と同じく賛成者として夫婦共々支援しています。

※ 写真3 左玄に宛てた谷干城からの依頼文  CDの10番
文意
(本  文)               (文    意)
暑気甚敷御座候處、            暑いこと甚だしいです。
益御多祥奉賀候、陳者    ますます幸いの多い事謹んでお祝いします。さてのぶれば
此之横山清子と申候人ハ、          この横山清子という人は
野夫同県之者ニ御座候、現          私と同じ土佐出身です。
今修行之為罷越居候、貴       今は修業のためにまかりこしおります。
君衛生上之御咄拝聞いたし、     あなたの衛生上のお話をお聞きしたいのです。
自分ハ素より、他之生徒へも       本人は本より他の生徒にも
勧誘いたし度 所存ニ而         誘う積りでいます。
紹介願出候、御面倒           紹介の依頼があり、大変に面倒
とハ存候得共、何卒御          と思うのですが、なにとぞ
閑暇之節御教示被成         御教示なし下されたく
下度、折入而相願申候事、        折入ってお願いいたすものです。
右為御相談如此ニ御座候、頓首      右御相談の為かくの如くにござ候
  七月十九日  干城  石塚左玄殿     7月19日   干城 石塚左玄殿 
                 
○明治の教育者も賞賛  南摩 綱紀 ※4
※4南摩 綱紀(なんまこうき)(1823~1909) 会津藩士で藩内一番の秀才と言われ、戊辰戦争を経験後東京大学教授、東京高等師範学校教授を歴任して明治の一大教育者で多くの漢詩や書を残しました。

石塚左玄の思想を紐解いた書籍は最近見受けられますが、彼の生涯を知る事が出来る文献は殆ど存在しないのが現実です。ましてや上京するまでの事跡は福井藩の残した文献に僅かに散見されるだけです。
そのような中で明治42年に福井県人である福田源三郎が書いた「越前人物志(ママ)」は左玄が存命中に取材されて書かれた唯一のものであり、ほんの僅かの内容しか書かれていませんが非常に貴重な資料です。その中に掲載されている左玄を讃える漢詩があり、それは左玄と交流のあった南摩綱紀によるものです。
南摩は左玄を『鉉臺石塚先生』と呼びそのタイトルのついた957文字数の漢詩を作り讃えました。その漢詩の一部を紹介します。
※左玄を讃えた漢詩の一部と文意
余興先生交有年。病則乞其診。語則従其説。以謂当今医中巨擘。医人医国名手。因撰其生傳廣諗世人云。
(私は石塚先生と親交を深めてかなり年を経ました。病気になれば診察をお願いしましたし先生が言われる通りに従いました。先生は当世の医者の中で最高の人だといえます。先生は人を癒し、そして国を癒す名医です。よって、先生の人生の一部を選りすぐって、広く世の人々に伝えます。)
人のみならず、国まで治療するというのはいささか誇大ですが、それは『優れた医は国を癒し、次に人を癒す。人を癒すことは国を癒すことであり、医術は広く大きいものである』と言う中国の文を参考にしています。
写真の書翰は明治40年10月21日に書かれたものでこの四日前の17日に食養会が多くの発起人・賛成者の下で誕生しましたが綱紀はその発会式で来賓として『日本人は日本の土地に生する五穀蔬菜の類を食するを可とする。』左玄の食養を絶賛し300人を超える来会者代表として祝辞を述べています。

写真4  書簡  CDの12番

○左玄に化学的考察を教えたアメリカの恩人 ウイリアム・エリオット・ グリフィス ※5
※5 グリフィス (1843~1928)アメリカペンシルバニア州で生まれ、藩の近代化と教育の向上を目指した福井藩に化学の教師として雇われ明治4年3月に来福、廃藩置県で同5年1月に上京、大学南校にて教授。

グリフィスは明治4年3月から福井藩校明新館において、理科実験室を設置して本格的に化学を教えたり更に語学や保健学までも教えています。
石塚左玄もグリフィスに化学や保健学等を習っていますがグリフィスに合わせるように上京しグリフィスの助手に採用されました。左玄が書いた本に『化学的食養長寿論』(明治29年出版)がありますが、化学という言葉をタイトルにも使用するなど常に化学的意識を持ち続けていましたが、そこにはグリフィスによる感化が大きかった事が認められます。
食養会機関誌にも『化学的食養雑誌』と名づけ、一番有名な『食物養生法』も一名化学的食養体心論とサブタイトルをつけるなど常に化学的考察を意識していました。
グリフィスに化学的考察を石塚左玄は習った事が左玄の学問の発展に大いに貢献しています。グリフィスが書いたグリフィス福井日記の中に、石塚左玄についてはIshizduka(ママ)として書かれています。

写真5  グリフィス肖像 添付ファイル 1486

○ドイツ医学推進者の支援  岩佐 純 ※6
※6 岩佐 純(1836~1912) 福井藩医で宮中顧問を努め明治40年に男爵
明治政府にドイツ医学を推奨し、現代日本医学の発展の基礎をつくる。
明治2年に医学校創立取調御用掛に佐賀藩の相良知安ともども命じられ、東大医学部の前身をつくり上げていきました。御用掛の二人の業績としてはドイツ医学の導入を図った事があります。西郷隆盛の推すイギリス医学の意見もある中、当時世界最先端のドイツ医学の採用を強引に進め、その後の医学の発展に大きく貢献しました。その事が今でも医師の書くカルテがドイツ語になっている所以です。
食養会支援者でもあった岩佐純は左玄が書いた『化学的食養長寿論』に序文を寄せています。
『化学的食養長寿論序』  明治二十九年五月
国之富強資人之健壮才知 人之健壮才知資食物之精美  即食物不可不採択也 (以下略) 
 侍医※  正四位勲二等 岩佐 純 撰 
 ※明治5年から同35年の間明治天皇侍医
「文意」
 国の富強は人の健康と才知による。人の健康と才知は食物の精美による。つまり、食物は選択しなければならないのである。 
左玄の食を大事にした食養思想を岩佐純も最大級の言葉で褒め称えています。
今は健康を守るのではなくて、作ることが求められています。今や我々が健康を考える時左玄をはじめ彼を取り巻く人々の思想と実践は大いに参考にすべきです。

写真  岩佐純の化学的食養長寿論への漢詩序文  添付ファイル0052

5.石 塚 左 玄 の 功 績 と 現 代 へ の 警 鐘
明治時代の石塚左玄の訓えが100年以上も経過する現代社会にも十分に通用するのは、人間が生きていく上での基本となる食生活について、いつの時代でもどこに住んでいても、そして誰もが絶対に変える事の出来ないそして守らなければならない事基本的な事を私たちに教えているからです。
時代と共に変化し時代に適合していかなければいけない事も多々出てきます。しかし左玄は食は如何なる理由であっても変えてはいけない物として食を捉えていました。
ここでは、石塚左玄の果たした功績を整理して見ましょう。私は左玄が食について果たした功績は3つあると考えています。
まず第一点です。食育の祖とも食育基本法生みの親とも呼ばれている石塚左玄の最大の功績はなんと言っても彼が明治29年に書き著わした『化学的食養長寿論』の中に『食育』なる言葉を初めて使い政府、国民への啓蒙を行った事です。彼が『食育』の言葉を本に書き残した事で、今の時代にも『食育』が息づいたのです。
『学童を有する民は都会魚鹽地の居住民は殊に家訓を厳にして躰育・智育・才育は即ち食育なりと観念せさるや願くは我国中往古時の食養法と料理法と化学的の食養法とに意を留めて・・・・』と子供の教育で一番大事で基礎となるものは、食育でありしっかりとした家訓が重要であると主張をしました。
左玄の多くの弟子達が『食育』を普及させましたし、左玄の同時代の人気作家であった村井弦斎※1は『食道楽』という本を書きその中で『食育』の言葉と左玄が言った『食育』の重要性を文にしました。
左玄功績の第2点は、時の明治政府は欧米諸国と肩を並べるべく積極的にあらゆる海外の物を取り入れました。立憲政治を目指し、社会の制度も欧米を見習うべく多くの視察団や留学生そして外国の専門家の招聘を行い、結果的に教育・医学等の欧米の文明を導入出来ました。このように文明開化の波が押し寄せ多くの国民が洋風化を目指して日本人の健康を左右する食生活までが大きく見直され、伝統的食生活が洋風化に変わっていく様子を左玄は憂慮すべき事態と見ていました。そして『日本人が洋風化の食生活をすると、多くの者が病気になる』と警鐘を出しました。続けて『日本人には日本人にあった食生活がある。地域には地域に根付いた食生活がある。』と言ったのです。
地域の食生活は地域の文化です。食は地域を現す文化の大きな要素を占めています。だから地域での食生活の変更は栄養の摂り方の違いだけではなく、地域の変革を意味します。
左玄は食文化の領域までは言及していませんが、昨今の日本の大変化・地域の変貌は正にこの地域の食文化が退廃した事と非常に関係があります。日本歴史上、食生活の大変革は3回あったと言われます。2回目がこの明治の洋風化の走りです。肉食が推奨され、伝統食が否定され、主食の米ご飯もそれまでの玄米食から白いご飯食に変わりつつある時で、その白いご飯食のために玄米に含まれていた栄養素が失われ、当時の食生活ではその失くした栄養を摂れるほどの副食もありませんでした。その結果白いご飯食の多くの者が栄養失調となり、脚気等の重症な病気で死亡をするようになったのです。日清戦争の陸軍の事例はそれを証明しています。
表1 日清戦争と陸軍の脚気病(名)吉村昭著「白い航跡」より
戦死者 戦病者 脚気死亡 脚気病
977 293 3,944 34,783
当時の日本政府は富国強兵の中で兵士に喜んで貰うために白いご飯を兵食としました。しかし前述の如く兵士は銃砲で死亡するより栄養失調と脚気で死亡したのです。直接の戦闘等で亡くなった兵の3倍の兵が朝鮮半島において脚気で死亡しました。ましてや脚気病は34,783名になりましたが、そこにはドイツ栄養学を信奉する軍医森鴎外の責任は大でした。
左玄は外国のカロリーを主とした栄養学、それは炭水化物・脂肪・タンパク質を重視しその他のミネラル成分を無視した栄養学に反発し、ミネラルのNaとKが特に人間にとって重要であると所謂夫婦亜児加里論を展開しました。いち早くNaとKのミネラルが栄養摂取に大きな働きをしていると考えた事は当時の栄養学の中でも特筆されるべきでしょう。
最後の3点目は左玄独自の食養・食育論を築き上げた事です。
私は左玄が言わんとした食育は六つに整理しています。
一. 家庭での食育の重要性  
食育は子供にとって全ての教育の基本であり、食育は親が家庭で行うものであると言っています。
二. 命は食にあるという食養道の考え
      心身は食によって作られ、食が人の健康を左右するという食養生の基本です。
三. 人間は穀食動物である
人はその歯や顎の形状から雑食や草食や肉食でなく穀物を主に食する動物です。
四. 食物は丸ごとで食べる。
      栄養は食べ物の一部分だけでなく全体にあるから加工せずに丸ごと全体食がいい。
五. 地産地消で地域の新鮮で・旬の物を食する。
     住んでいる地域の農産物はそこに住んでいる人に優しく新鮮で栄養価値が高い。
六. バランスのある食事 
       世界は陰陽二元の原理に支配されてその調和の上に成立しているという様に食もバランスが大事という論。

これ等の事は次回から学んで行きましょう。

そして大事な事は左玄のこれ等の思想が左玄の弟子達によって更に発展し、マクロビオティック (Macrobiotic)として世界に普及発信されたのです。マクロビオティックは「長寿食」とか「自然食」などと理解されていますが、世界史の中で食の運動として始めて世界的に運動展開されたのが、このマクロビオティックです。今イタリヤ発のスローフード運動が世界に流行をしていますが、遥か以前に日本人によって石塚左玄の訓えを発展させたマクロビオティックが今も綿々として続いています。
そして日本では正食協会等が左玄死後100年を経ても彼の訓えを護っています。

※1 村井弦斎(1814~1927)
愛知県豊橋出身 報知新聞記者で作家の仕事も行い『食道楽』はグルメ雑誌としてベストセラーにもなり、西洋料理などの紹介も行い合わせて石塚左玄の提唱した『食育』が子供にとって一番大事であると書きました。しかし晩年は竪穴住居に住み自然食を実践。

写真  「化学的食養長寿論」復刻版 2007・10・16 NO―0055
    CD 21-A化学的食養長寿論 原本

6月号  食育の祖 石塚左玄物語
6.石 塚 左 玄 の人となり
昨今の食育ブーム火付け役となった石塚左玄と交流のあった人は4月号に紹介をしましたがその多くの要人が左玄の唱えた食の考えに賛同をしました。そして左玄の業績・功績と同じく左玄の人となりについても高い評価をしていました。石塚左玄の食の思想を解説している本も最近は多くなりつつありますが、左玄そのものを語っている本は殆どありません。しかしその中で最もポピュラーでボリュウムが最大であるのは桜沢如一 ※1が 左玄の死後20年程後に書いた『石塚左玄』があります。
この本には左玄の思想や左玄の人格も含めて多岐に渡って幅広く書かれていますが、残念な事に左玄の死後に書かれたものであり、最も致命的であるのは生前の左玄に直接会って聞き取りしたものではないので、左玄の理論や思想については左玄が書いた本や桜沢如一自身の食養会での活動で十分な記述がされていますが、左玄個人の略歴や人格等は間違っている記述もあり左玄の全てを知るには不満足な面があります。桜沢如一は本の序に左玄を次のように評価しています。
『左玄は明治年間において最も徹底的に非日本精神に対抗し、最も壮烈な戦いを戦い、かつ最も悲惨な最期をとげた唯一人の精神的戦士である。彼の奉公は明治維新の忠臣の何人にも決して劣らぬ。(略)彼は東洋独特の幽玄なる哲学を西洋科学用語を持って解説した一人者である。』
左玄は決して国粋主義者ではありませんでしたが、時の政府が率先して欧米等先進国の制度・文化・思想導入を図り、それに合わせる様に日本の食生活・食文化が洋風化に激変し、日本古来の食生活が壊れていくのを現実として捉える事は出来なかったのです。純粋な国粋主義者ならば、あらゆる面で洋風化に反対の意を唱えたでしょう。しかし4月号のグリフィスの項目でも書いたように、左玄は積極的に洋風化の意味合いを持つ「化学」をグリフィスから学び、左玄の書いた本にも「化学」と言う言葉を使ったのです。左玄は欧米の「化学」に憧れ、先進国の学問である「化学」の導入に全力で取り組んでいったのです。そして左玄は食の心・真・信・力・美を求め続け日本人本来のあるべき食について多くの人に警鐘を与えました。

グリフィスが来福時には、昼は病院で働きながら、夜には彼を訪ねて保健学等の勉学を請い、グリフィスが離福するとその後を追って助手になりました。当時の左玄にとって医学等の学問最先端を学び得る事が可能な方法は、グリフィスからのみでした。藩医であれば、藩命で長崎にオランダ医学の勉強も不可能ではなかったでしょうが町医の身ではそれもかなわず、彼なりに身近で西洋の化学や医学を勉強する手段を模索したのです。当時の著名な医師の大半は欧米に留学の経験があり、日本と違った化学的文化・文明を肌で感じ、西洋医学を身に着けて帰国しましたが、左玄はついに留学する事はかないませんでした。しかし左玄の脳裏にはグリフィスから学び取った化学の思想があり、誰よりも化学という概念を強く意識づけ、自分こそが最初に化学を学んだ者であるとの強い自負心をもっていました。その認識があるからこそ、故意に『化学的食養長寿論』とか著明な『食物養生法』も一名化学的食養體心論と化学を強調しています。

左玄は日本人として護らなければならない伝統と新しく洋風化すべき事と明確な基準を持っていました。
左玄は西洋の先進的事項をしっかり学び取り、その上で日本人に何が大事であるかを訴えました。そこで左玄は食物の3大栄養素である炭水化物・タンパク質・脂質の栄養価値を根幹として食べる西洋の栄養学よりも、体内で吸収摂取される栄養そのものが人にとってより重要であると考えて西洋の栄養学を否定しました。後述しますが、その栄養摂取に当たってはミネラルのNaとKが大きな役割を果たしていると無カロリーのミネラルの重要性を説きました。結局の所、日本になかった欧米の「化学」によって日本人の食を解き明かそうとしたのです。
その事は欧米の栄養学・医学でなくて日本古来の漢方医学の中に化学的食養法を見つけることに全力を挙げその論拠に海外の栄養成分データーを駆使し理論づけをしました。それはミネラルのNaとKのバランスが栄養摂取を左右すると言う夫婦亜児加里論に繫がっていきました。

桜沢如一が本の中に書いた「西洋科学用語を持って」とはこういう意味です。
左玄が提唱した夫婦アルカリ論では海外の多くの研究内容や論文を参考にしたものが見受けられます。本の中でウオルフ  ケムメリヒ ルンケ ブックル モールレヨワト等の名前を記述しています。(どのような人でいかなる功績があったか私は明確には理解していません。)
今に伝わる左玄が残した書籍や書類の中には海外の資料から参考にしたものも見受けられます。
ドイツやフランスそしてイギリスの陸軍等の事例から主に軍医時代に参考にしたものと思われます。『佛国陸軍軍医部内務書抜萃』は薬剤官の職務、計集法等が抜粋して複写されています。
『独逸陸軍衛生政體大意抜萃』は陸軍軍医の薬剤監として「調剤局之部」を選び出して残しています。左玄はかなりドイツ語を解したようです(左玄の孫が書いた本を見ると完全にマスターしていたとあります)が、『序にあわただしい時(妻の死亡)に訳したので、訳文が妥当でない物が多くあり、許して欲しい』とめずらしく丁重に断りながら書いています。本人の勉学のみならず、第3者への参考資料にも活用がなされたようです。イギリスの参考資料は3点残っています。『英国軍医部条例抜萃』は主として薬物・薬剤に関する章を書き出しています。『英国版 衛生辞書抜萃 検尿法』の内容は水に因る疾病調査という事で河水より伝染するものなどが整理されています。『包厨概則』もイギリス陸軍からの参考ですが、陸軍病院での厨房の衛生管理について述べられています。
左玄は先進海外からの事例も学ぶべきは積極的に学び取り、それを実践をしたのです。

私が石塚左玄の人格を述べるならば、形容する言葉としては、勉強家・努力家が最適と考えています。それは反骨精神と裏表の関係ですが、両者が相まって左玄の人となりをつくり、その事が業績でも食育の祖として完成させたのです。

左玄の勉強家・努力家の実際を彼が書き写し今に残る『蘭語天文書』が証明しています。
明治元年17歳の時でした。左玄は福井藩医学校で雇いという形で勤務をしていました。ところが福井の皿毛村において窒択斯病(チフス)が発生したので上司から現地に治療出張を命じられました。左玄は日中には患者の診察等を行い、約1ヶ月間現地に寝泊ったのです。
現地に行く時に医学書を持参して勉強をしたかったのですが、当時の洋書は高価で貴重でもあり、そんなに簡単に洋書本を貸してくれる者はありませんでした。しかし漸くに蘭語の天文書を1冊借りる事が出来、天文学は門外漢であったのですが、左玄は喜んで現地に持参しました。
その時に仕事の合間を縫って借りてきた蘭語の天文書を自筆で一ヵ月かけて書き写しました。オランダ語は医学書を読むのに当時は重要でしたが、医学書と関係のない天文書を電気もなく、まともな文房具もない当時に、僅かの蝋燭の灯りをたよりに、17歳の青年がただ只ひたすらに必死に筆写している姿は時空を超えて感動を与えてくれます。今に残るそれはアルファベッドだけでなく絵図の筆写も素晴らしい出来栄えです。191ページに及ぶ筆写のページ数・オランダ語だけから判
断しても想像を絶するものがあったと推測され、左玄のひたむきな努力と人間性が伺われます。左玄の勉学に対する情熱・熱意は現代人から見ても並外れたものであり、17歳とは今の高校2年生になります。現代の高校2年生が写すとなれば、コンビニでコピーする事になるでしょう。左玄のこのような努力があればこそ、後世にも通じる食育の祖になったのです。
私は左玄から今一番の教育である『食育』を学ぶ事も当然大事な事と思います。実際左玄以上に的確に現代食について考えさせる人も存在しません。しかし『食育』もさることながら、現代の17歳の世代はもとより全ての人々が(特に17歳の親達)この『蘭語天文書』から忘れてしまった何かを得ることが出来るのではないでしょうか。努力とはどんな事をすれば努力と言えるのか?勉強とはどのようにする事が勉強なのか?左玄の残したものが食育を通して人としての人間力を育てる事にも繫がるのではないでしょうか?

写真    蘭語天文書 表紙       18A
       筆写したオランダ語      18C
       筆写した天文図        18H
       独逸陸軍衛生政體大意抜萃 表紙と一部  26A 26B

※1 桜沢(さくらざわ) 如一(ゆきかず)(1893~1966) 京都市生まれ。石塚左玄死後の1911年に、貧困も重なり病気がちであった時左玄の食養思想を知り、その実践で健康を回復した事で、左玄の食養思想を発展させマクロビオッテイック運動を提唱しアメリカ・ヨーロッパ等に普及推進を行う。
門下生にアメリカでマクロビオッテイックを普及させた久司道夫氏や正食協会岡田定三会長らがその際たる伝道者となっている。

食育の祖 石塚左玄物語
7.食育は家庭教育なり
石塚左玄は1896(明治29)年に上梓した『化学的食養長寿論』の中で食育と言う言葉を
以下の様に日本で初めて活字にして使いました。『学童を有する民は家訓を厳にして・・・・躰育、智育、才育は即ち食育なりと観念せざるべけんや。』『之を約言すれば躰育、智育、才育は即ち食育なりと』
当時は五育と言われる智育、才育、徳育、躰育、食育があって(現代の教育の3本柱は徳育、知育、体育でイギリスのハーバート・スペンサー1820~1903の三育主義に由来しており、左玄はそれを参考にした事が推定される。)家庭を基盤にした五つの教育があり、その中でも食育は全ての教育の根幹であり基礎となるもので教育の中で最優先されるものであると書きました。当時の庶民の暮らしでは病気になっても医師に診察を依頼するのは金銭的に不可能であり、又伝染病等の的確な治療技術もない中で仮に診察を受けても完治を望める状況でもありませんでした。
ですから自らが健康に関心を持ち、積極的に実践するのは自然の事でした。養生という言葉はその意味であり、特に食に注目したのが食養生です。現代社会と違い、寿命が短く多くの病気で苦しんだからこそ健康を守る事に今以上に真剣であったのです。(現代社会では健康を守るという事より、自分自身でつくるという、より強いアプローチが求められています。)当時は子供が成長し自立しても、食についての知識や正しい食生活が出来るようにとする食育は家庭での親の仕事でもあったのです。
(当時は勿論誰もが学校に行けるわけではありませんでしたし、親も意識をして教えていたわけではありません。しかし日本の初等教育が義務教育になったのは1886年でイギリスよりわずか遅れる事10年と近代国家を目指した明治政府の意気込みがみられます。)
それでは一般的な現代社会での育児を取り上げてみましょう。大概の親たちは子供たちに向かって「もっと勉強しなさい。」と口喧しい事でしょう。そして学校から帰ったら子供達は塾通いに忙しいのです。
その様に大半の家庭で五育の一つである智育は、子供にしっかり実践させるべく親は力をいれています。
家庭によって様々な形態があります。その様に智育を優先している家庭あるいは体育に熱心な家庭、等々。
子供の行儀が悪ければ普通の家庭では叱るのが一般的でしょう。十分に満足な徳育ではありませんが家庭でも親として道徳も教えています。(しかし最近の倫理観の悪化は目に余るものがあります。)
そして五育の中の一番基盤となっている大事な食育を実践している家庭は非常に少ないと思われます。しかしやはり生きていく上での最も重要で最優先させるべき食育をおろそかにするような事があってはならないのです。まず食育と言う認識がありません。実際子供たちには十分な食事をさせているし、子供の好きな物を食べる事が出来るように親が子供に気を使ってもおり、時には家族で子供の好きな外食もしているし、なんら食についての不足はないと思っているのが今日の親です。その事実こそが誤っており、親は子供の日々の食生活を全く分かっていないか、仮に知っていても間違っている食に気づいていないか、少数の親は気づいていても忙しくてとても手が回らなくその事は学校で子供たちに教えて頂く教育であると考えているのです。
大人自身食生活が原因と思われる糖尿病を始めとする最近の生活習慣病の増加を見るに、大人自身の食生活を見直す事がまず第一です。親が間違った食生活を行なっていても気づいていない。それではとても親が子供を食育することは出来っこありません。

図1朝食の欠食率

朝食を食べない子供について教育関係者からも深刻な影響を心配する声が聞かれます。
図から見ると、6歳未満で7%の子供が朝食を食べていない事実が伺われます。小中学生で
も男児生徒は7%、高校生になると15%近くが朝食を食べないという驚く事になります。
子供たちが朝食を食べないのは決して子供が悪いのではなくて、親に全ての責任があります。実際には親が親の責任を全うしていないからです。
20代の男性では実に3人に一人近くが朝食を食べていません。
多分子供を持つと思われる30代の父親も5人に1人が、母親も14%が朝食を食べないのですから、その子供が食べるはずもありません。それでいて子供の1日の摂取カロリーは脂質・油脂類を中心として十分すぎるほどの過食であふれていて、そして植物繊維やミネラル・ビタミン類不足と栄養の偏りがあり、食については親の無責任さが伺われます。
図2 子供の肥満
 
戦後の子供の体格は以前と比較して大きく改善され、それには食生活改善と栄養等が貢献をしているのは間違いない事実です。ところが今では栄養過多と運動不足で子供にも肥満が見られ生活習慣病の早期化に拍車がかかっています。
図2からは小中学・高校生の10%を越す子供が肥満となっている状況が伺われます。現代食は飽食と呼ばれます。
表1.痩せの推移割合  (平成17年度学校保健統計調査)10歳で平均体重の80%以下
男女 男 女
S52 1.0% 1.0% 1.1%
H17 3.1% 3.4% 2.7%
そのように肥満は確実に増加していますが、表1は肥満の逆の痩せの推移です。
平成17年の痩せの割合は3.1%と数そのものは多くはありませんが、しかし昭和52年と比較すると率は3倍になっています。増加率は肥満の率より遥かに高い数字で、要するに肥満も多く痩せの子供たちが激増しているのです。これらからも子供たちの食生活の乱れが見えてきます。
子供の食は家族ばらばらで食べる個食、一人ぼっちで食べる孤食、決まった物しか食べない固食、地産地消の正反対の冷食で加工食は添加物まみれになっています。偏食や欠食と言う言葉もあります。
何故にこのような状況に陥ったのでしょうか?
両親が仕事を持って毎日忙しくて家庭での食事作りの時間がないとか、又食の洋風化も原
因だと言われていますが、要するに一番の理由は食生活を軽んじる現代社会の風潮が問題
と思います。本来は食優先で生活があったのです。そして食と繫がって家族が存在しまし
た。
ところが当たり前であった家庭での食事つくりが最優先でなくなった事です。家庭で作らなくても実際はファーストフードや惣菜を売っている店は数多存在し、家庭での手つくりをしなくても簡単に食べられ、食事は不自由でなくなったのです。
子供達にとって一番大事な事は何か、近代社会で所得も増え栄養改善も進み豊かな食生活の反面失くしたものは何か今一度真剣に考えるべきです。
過去の生活費の最優先はまず食費で、余裕があれば次の物をとなっていました。さらに現代では質よりも安い食料を優先するといった食も安ければいいと言う風潮がはびこっています。その事が又食の偽装につながり、回りまわって消費者に大きな代償を払わせています。
もう1点は洋風化の食生活が日本型食生活より栄養学的にも優っていると勘違いしてその様に実践していることです。日本型食は今世界から注目されているヘルシーで栄養的にも優れた食です。今一度足元をしっかりと見つめなおして欲しいものです。
左玄は親の責任として立派な人間を作るには、親一代のみならず、親の親からの食養が必要だと『神様と思われん人つくるには親の親より食を正して』 と説いています。食育の究極的目的は人としての命の大切さを知り、心身ともに健康で人生を過ごす事です。子供達を真の意味で愛し明るい未来を期待しているならば、もっともっと親自身が食育を理解し、親が自ら実践し、子供への食育に努めなければなりません。
食育は家庭教育です。最近学歴より食歴が大事であると言われる所以です。
家庭での食育は子供にとっての最大のワクチン 親が家庭で行う食育が何よりも最高の良薬となり、心身の健康を作ってくれるのです。

写真 CDの19番 食物養生法

8.命は食にあり 食養道
道(どう)とは広辞苑によれば①人として守るべき条理②専門の学問・技芸・運動などの世界、その修業過程などと説明されています。知人によれば日本3大道は華道・茶道・香道でありそれは正に修業であり、その道を極めるにはその技術の取得のみならず人格の向上が求められる日本の心そのものであると言います。
書道や日本舞踊も同じようなものですし、剣道・柔道の武道も単にスポーツでなくて日本の文化的精神面の価値観を現すものとして伝えられています。左玄は食の世界でも日本人として絶対に護るべき道を食養の道として考えました。それが食養道です。
石塚左玄が唱えた食と健康の繋がりを最も的確に表現している文の一つで『化学的食養長寿論』の最初のくだりに
しょくよ ひと しょう           しょくよ   おおきく しょくよ  ちいさく しょくよ 
『食能く人を生ずるものにして、即ち食能く人を長大し、食能く人を矮小し、食能く人を
こや        やせさ           すこやか よわく        ゆう  きょ※1   
肥厚し、食能く人を痩癨して、食能く人を健にし弱にし、食能く人を勇にし怯にし、食能
                   ながいき わかじに                 やわらか         
く人を智にし才にし、食能く人を寿にし夭にするのみならず、食能く人の心を軟化にして
                          かたく   やひ けんそう   
高尚に静粛に温和に優美に、食能く人の心を硬化して野卑に喧噪に強情に卑劣に為すや無論なりとす。』とあります。食が人の身体をつくり、人の健康を左右し、人を賢くし、人の長寿を決め、人の心と性格の良し悪しに影響を与えると食と人の関係をこれ以上に語っている文章は他に無いと言っても過言ではありません。
さらに続けて『物不得平則鳴、食不得平則病』「物の平衡がくずれると声を出して鳴き、食の平衡がくずれると病気になる。」と左玄は言っています。    
人の発育成長にとって食養道は大変大事なものであり、左玄が考えた食養道実践は食べる人の体格、人格、住んでいる場所、天候、採れる食物の種類等で千差万別の手法があり、要するに『郷に入りては郷にしたがう』事が正しい食生活という事です。食養生とは健康保持や体質改善のため、体質・体調に応じて栄養を考えた食事をとったり節制したりする事と大辞泉にありますが、多くの養生の中でも一番重視されたのが食養生です。江戸時代の3大疫病は天然痘、はしか、水痘で有効な治療法が皆無の状況では、加持祈祷と合わせて食事にも頼ったのです。当時は健康な時から食養生に気を使いましたが、病にかかると尚一層に食養生が重要となりました。そして食養生が食療法の形で治療とさえなったのです。私たちの体内では古くなった細胞が捨てられ、代わって新しい細胞が生まれ続けています。この事が生きている証です。これが出来なくなると、それは死を迎える時なのです。
私たちの毎日食べる食は、私たちが身体を動かす時に使われるエネルギーになるのは勿論ですが、それだけでなくて新しく細胞を作っているのです。だからこそ品質の良いものを食す事が大事です。しかし最近は食も安ければいいという風潮が蔓延している事に危惧感を持たざるを得ません。
食養道とは正に食養生実践の根幹理念です。左玄の言う食養道を一言で言えば命は食にあり、食が命をつくる。食が心と身体をつくる。食が健康をつくる、食が全てとなります。
『今日となりては千種萬類の食物あるも、亦敢て怪しむ人なきのみならず、尚且つしんしんとして人為に人為を加ふるの多き、遂に進んで食養の本分を忘却し、以って此他に求むる所あらんとするも未だその帰着する所を窺ふに由なかる可し。万物の長たる人をして病の問屋足らしめるの観あるは、即ち以って食養の道に一定の標準なく、人為に人為を加えたる原因結果に外ならざる所以』
地球上万物の霊長である人間が病気のデパートとまで言われるようにあらゆる病で苦しんでいるのは、人間界に食養実践のルールが無いからである。人間の真の食は自然であるべきが、その食に必要以上に人手を加え加工した事が病気の原因であると論破していますが、この事は100年後の平成の時代にもそのまま通じる話です。綺麗に美味しそうに見える現代食は正に多くの添加物のなせる仕業であり、人の味覚を惑わせる添加物の組み合わせによる味付けで食材本来の形と質も留めていない加工食品のオンパレードです。もっとも食と健康については古来から世界各地で両者には密接な繫がりがある事が言われて来ました。
『食で治せない病気は医者も治せない。』と紀元前460年に生まれた医聖ヒポクラテスの名言です。
今国民病とさえ言われている生活習慣病の最たるものが糖尿病です。最新の国の調査では
平成19年の糖尿病患者数は予備軍も入れて2210万と成人の5人に一人が糖尿病となっていて、5年前と比較して136%と急伸長している。
表1 平成19年成人の糖尿病及び予備軍の患者数(厚労省)
H19年  人 H14年   人 対比
糖尿病患者数 890万 740万 120%
糖尿病予備軍   1320万 880万 150%
合     計 2210万 1620万 136%
(糖尿病患者とは糖尿病診断基準であるヘモグロビンA1C濃度(正常値は5.6%未満)が6.1%以上で、糖尿病予備軍とは5.6%~6.1%未満の糖尿病の可能性を否定できない対象群である。)
国民の間で生活習慣病の危険が急速に広がっている実態が浮き彫りになったかたちで、厚労省は『食生活の乱れや、運動不足がなかなか改善されていないのが大きな要因』(生活習慣病対策室)としています。国も乱れた食生活を生活習慣病の原因のトップに位置づけていますが、今の大人がこのような非常事態ですがこれから大人になっていく今の子供達が成人になった時には如何なる事態が待っているのでしょうか?現在の親が食べてきた食は粗食でしたが、それでもこのような状況です。現代の親は、若いときから今以上に身体を相応に動かしてきましたが、残念ながらこの実態です。現代の子供たちの食と日々の生活を見ますとどうなるのか?親の家庭教育で食育と食養道を確かに実践する以外に明るい明日は望めません。
糖尿病は人間だけではありません。人間が可愛がっている犬や猫のペットにも襲い掛かっています。国内のペット犬や猫はそれぞれ1000万頭(匹)前後と推定されています。その数の内最悪は10%が糖尿病と予備軍と見込まれるそうです。(日本人の大人のそれは20%)ペットも人と同じ道を歩んでいます。これもペットを我が子同様に飼っている親が全ての責任です。ペットの糖尿病の原因も人と同じくまず洋風化された食生活が最大の理由です。ここまでに悲惨な現代を100年前の左玄は想像をしなかったでしょう。贅沢極まった食事を与え運動不足にさせた人・飼い主・言わば親が原因です。
沼田勇先生は次のように左玄の食養道を説明しています。 『現代栄養学が分析的、科学的であるとすれば、石塚左玄の食養道は総合的、哲学的です。左玄はヨーロッパ文明を批判し、生命の問題を生物学的に、民族的に、風土的にと広い視野に立って思索しました。』
日本人が糖尿病を始めとして多くの生活習慣病に病んでいるのは食に起因し、護るべき事を実践していないからであり、親が正しい食生活を食養道の下で実践すればそれが家庭での食育になります。
最近は花嫁修業も死語になりつつありますが、その代表的なものは華道・茶道そして料理等ですが、私は左玄の提唱した食養道も結婚へ向けての習得すべき道として家庭で是非とも伝えて欲しいと思います。料理で更に腕を磨くべく専門学校へ通い完璧な花嫁を狙う女性も多く存在しますが、そこでは美味しい料理をつくることは教えますが、食養道はカリキュラムにはありません。ましてやフランス料理の名シエフでも代々その家に伝わるお袋の味は教える事は出来ません。

日本の漢字研究者の第一人者である故白川静博士※2が書いた『字通』によると「食」と「養」の意味は次のようになります。「食」は俗に人に良いと書きますが、象形文字で下のほうの「良」は穀物を入れる容器であり、それに上に蓋をしたのが「食」です。そこから「たべる」の意味になりました。なお「良」穀物を入れる器から、穀物を選び量を定める物へと良い意味へとなったとあります。
「養」は食にも似た漢字ですが、羊(ひつじの角と頭の形からの象形文字)を飼う意味です。羊は当時の中国では供え物や素晴らしいご馳走にもなりもなりました。そこから食物でやしなうと言う意味になっていきました。養生とはまさに生命を養うという事になります。
尚「羊」の字の語源は「いい」という意味があり、そのような意味合いの漢字に使われています。「美」「善」「義」などに羊が使われています。食と養の本来の意味合いをしっかりと学んでおくことも大事です。
※1 怯 おびえる、恐れおののく意味。 
※2 白川静 (1910~2006) 福井市生まれ。漢字研究者の第一人者と言われる。苦学をしながら立命館大学を卒業その後同大学教授となる。甲骨文字や青銅器に書かれた金文を紐解き漢字のルーツを研究「字統」・「字訓」・「字通」の3部作などを発刊。最後の碩学者とも呼称される。文化勲章など多数の受賞あり。
食育の祖 石塚左玄物語
9.人間は穀物食動物なり
『化学的食養長寿論』やそれを簡易に分かりやすく書かれた『食物養生法』もその第1章の見出しを「人類は穀食動物なり」と記する程に左玄は穀物食にこだわっています。人間は俗に雑食動物と言われて何でも食べる動物と思われていますが、左玄は人間が食べるべき食のウエイトから判断して穀物食を主として食べる穀食動物と呼びました。人は肉食動物でもなければ草食動物でもない事は周知の通りですが、穀食動物とは聞きなれない言葉です。
左玄は人間の歯の数、形や構成と下あごの動き方で穀物を食べる穀食動物であるという確証を得ました。
表1 動物の歯の形
動物 獅子、虎 牛、馬 人間
歯の形 ノコギリ歯 平歯 臼歯
下あごの動き 横・斜めに動かない 横・斜めに動く 前後左右に動く
特性 肉食 草食 穀食
ライオン等の肉食動物は、歯の形が犬歯で魚や肉を引き裂く役目を持っており、牛等は草食で繰り返し草を口の中で噛むために、歯も平歯で下あごも横・斜めに動くようになっています。
そもそも歯の形状や構成はそれぞれの動物が本来食すべき物に対しての必要性から生まれたもので成されており、それにあった食事がまず食養の入り口になります。
表2 人間の歯の形と本数
本数
(親知らず含む) 構成比 特性 
臼歯 20本 62.5% 穀物をすりつぶす
門歯 8本 25.0% 野菜・果実を食べる
犬歯  4本 12.5% 魚・肉を切る
 計 32本 100.0
『臼歯を持つ人は粒食う動物よ』とは左玄が人は穀物食動物なりと言った言葉です。
臼歯はその字の如く、臼のような歯であり臼の中に硬い穀物を入れてすりつぶして穀物を食べるための歯です。人はその臼歯が20本で全体の62.5%の割合がありますから食の62%は穀物を食べる事になります。門歯は野菜・果実を食べるのに適した歯で25%は、人間は野菜・果実を食べるべきとなります。犬歯は魚・肉を食べるための役目がありますが、12.5%は魚等を食べるべきとなります。
左玄を完全菜食主義者と誤解する人もいますが、決してそうではなく魚類も12%は食べるべきと言っている事から菜食主義者(ベジタリアン)ではない事が伺えます。又本の中で左玄はベジタリアンと穀物食の相違を述べています。
表3 穀物食とベジタリアンの相違
穀物食とベジタリアンの相違
化学の学理に基づく
歯の構造から食事を考える
土地の風土、気候を考慮した食事
魚等の食をする。
当時の欧米では既に菜食主義者が存在していた事が書かれています。そして彼らは魚や肉類を全く食べず、野菜と穀物を主とした食生活を行っているが、これは穀物食と似て非なるものと言っています。表3にあるように、穀物食はベジタリアンと違って、魚肉・野菜等の穀物以外の食物も食するが、歯の形と数から穀物を主とする食生活であり、風土と密接に手を携えた食であり、常に化学を考慮した上での食である事が穀物食と菜食の大きな相違点と指摘しています。

左玄の言う穀類とは、玄米を意味しています。玄米の栄養学的価値については5月号の石塚左玄の功績と現代への警鐘の所でも簡単に述べましたが、11月号で更に詳しく書く予定です。
左玄は玄米を正穀と言い、その高い栄養価値に注目しました。正穀に準ずるものとして蕎麦をあげています。
本来人間は穀物動物である事から、玄米は唯一粒を丸ごと食べる最高の穀物食でもあると言いました。
食養の選択の最高に位置づけされているのが、正穀の玄米でありその食を正食と呼ぶのです。

雑食と勘違いしている人間はそれこそ何でも食べ、その割合も何も気にしていないのが実態です。生きている地球上の動物はその種類によって実に様々の食生活が見受けられます。しかし生きている動物は生まれながらにして何を食べるかが既に決定されています。百獣の王ライオンはそこに住んでいる動物を狩って肉しか食べません。葉っぱ類を食べる昆虫ですらどの木の葉か、どの種類の野菜の葉っぱか彼らは食べる葉を決めています。モンシロチョウの幼虫が食べるのはキャベツの葉っぱだけです。アゲハチョウの幼虫は山椒の木の葉っぱです。食材の確保に向けてお互いの要らぬ戦争を避けるための神が創った自然の知恵かも知れません。ライオンも蝶も何を食べたらいいのか皆弁えているのです。
一時BSE汚染の牛肉で日本でも大騒動でした。熱しやすく冷めやすい日本人からはもう忘れ去ろうとしている大きな問題です。アメリカからの輸入に当たっては、今も厳しい国の管理の下に置かれています。そもそもBSEとは牛海綿状脳症の英語の頭文字ですが、牛の脳が溶けてスポンジ状になり死ぬ怖い病気です。食する肉の部分などを取り除いたあとの骨や内臓などを加熱処理した物を肉骨粉と言いますが、それを牛の餌とした肉骨粉原因説や代用乳説などがあり、化学的には諸説が混在しています。BSE汚染肉を人が食すれば人も同じ様な病気を発症するというので、牛の徹底した飼育管理が求められています。しかしここで重要な事は、牛は歴史上肉類を一切口にした事がないのです。表1にあるように、牛は完全な草食動物です。BSEの伝染経路は不透明な点もありますが、牛が絶対に食べたことがない肉骨粉なる肉食を人為的に餌として与えられた事実です。食べるべきものを食べずに、食べてはいけないものを食べた結果がBSEと私は考えます。日本人も左玄が言う穀食動物である事を忘れ、今や肉食動物あるいは雑食動物になろうとしています。

『圓(まろみ)心ある穀類(こくるい)多く(おお)食し(しょく)なば智(ち)仁(じん)勇(ゆう)義(ぎ)の道(みち)に富む(と)なり』 
大阪JR梅田駅前の繁華街の一角は曽根崎心中で有名な所です。そこにある日蓮宗本傳寺に大きな石碑が建っています。設立者は大阪双鹽会で明治45年(左玄の死後)に多田好間氏等によって設立されています。実のところ私には多田好間氏は明治13年6月18日から17年12月16日まで太政官少書記をしている以外は分かっていません。
さて左玄が意味するのは、『食物の形状は大別すると3つあり、縦に長いのは地中より生ずる野菜類で植物食品、横に長いのは活きて動いている魚・鳥・獣類で動物食品で、圓(まる)い物は穀類・果実類です。水はその入っている容器によって圓(まる)くもなれば、四角にもなるように、人間は善悪の友にも左右されますが、それ以上に日々の食が大きい影響を与えて、善人にも悪人にも賢者にもなれば愚者にもなります。正しい食養を実践して圓(まる)い穀物を食べれば、身体も心も圓(まる)くなり、横に長い動物食品をたべれば心身は横様になり、縦に長い植物食品を食べると縦様になる。』圓(まろみ)は丸いと同じ意味を持っています。
圓(まる)い食材である米粒は人の心も圓(まる)くすると説いています。
かなり哲学的思考と宗教的発想が混在していますが、穀物食をより簡易に理解し易くするためにこの歌を作ったのです。

写真2007,10,8  NO-1748  日蓮宗本傳寺 写真

食育の祖 石塚左玄物語
10.地産地消と風土論
石塚左玄が「食育」という言葉を初めて活字にしてから113年経過しました。そして最近その「食育」の意味を反映して良く聞く言葉に「地産地消」と「身土不二」の熟語がありますがこの二つは同じ意味合いを持つ言葉です。多くのマスコミが自給率の低下した日本農業の再生のためにも消費者と一体となった「地産地消」が有効な手段であると報道しています。学校での食育活動は学校給食の食材を「地産地消」で調達するのがスタートになっています。この言葉「地産地消」は1980年代に農水省の役人が作った地域生産地域消費の略語で、地域で作られた物を地域で消費すると言う意味で非常に新しい言葉です。一方「身土不二」は元来仏教用語ですが、「身体と土地は分ける事が出来ない」「人間は土地・環境と一体の物である」の意味で左玄の死後食養会が左玄の思想と酷似しているという事で左玄の食育・食養の説明に用いるようになりました。
左玄は最近になる言葉「地産地消」や「身土不二」と言う言葉は使用していません。
左玄は『入郷従郷』と『風土』の言葉を使って自然と人間の関わり合い即ち地域の農産物と健康の説明をしています。食養の具体的実践として、住んでいる土地、気候、風土そして伝統の食物こそが原点であり、郷に入れば郷の伝統文化・風習・食生活に従うべきと推奨しました。又本の中で『風土異則民族不同』とも言っています。『風土が違えば民族は同じにならず、土地の気候・土壌・地形等が変われば当然農業も変わり生産物も変る。』風土が変われば生活習慣や食習慣も異なり、人種も異なるというのが左玄の風土論です。そして身体や体格のみならず、風土によって人間の心や人格まで変化し風土がそれらを決定すると言っています。
つまり住んでいる土地、水、気候条件等に左右されて地域の農業のあり方が決まり、その農業で生産される農産物や漁業による海産物がその地域に住んでいる人間の食になり、その食がその地域の人間の体格・身体・心・人間形成を決定する重要な存在です。そうすると、その地域に住んでいる人はその地域の物を食べるのが最も自然で身体に優しく、栄養吸収も良く健康的であるという事です。
土地、風土に順応したものが伝統食として伝わり、更に食文化と言われるほどに地域性を持つに至ったのです。少し横道にそれますが、食は地域を現す文化ですから、非常に限られた地域の産物です。

その食文化と称される美味しい物を、全国に流通してどの地域の物でも平等に食する事が出来る様なシステム作りがなされる事も一つの食のあり方ですが、そのためには添加物に頼ったり、必要以上に加工したりとマイナス面も多く、環境面を含めて現状は問題点が多くあるのも事実です。
つまり美味しい物を何時でもどこでも食べようとするから、元の形を変えたり加工をしたり添加物を使用したりと無理を生ずる事になります。本当に美味しいものはその地域で食べる事が大事なのです。これが本当の「地産地消」です。
我々が生きるために欠かす事の出来ない必要不可欠の食『春苦味、夏は酢の物、秋辛未 冬は脂肪と合点して食へ』と左玄が言っている様に、「地産地消」は旬の物であり、新鮮で栄養学的にも優れた地域の農海産物を毎日食する事が健康にも大切となってきます。これが『旬産旬消』の言葉の意味です。 ※巻末参照 ほうれんそうのビタミンCの季節変動
日本は四季が明確で風光明媚な国です。そこに住んでいる私たちはその季節の巡りに合わせて季節の物を食べたくなります。自覚しなくても身体が自然に季節の移り変わりに同調して時の旬の物に手を出すのです。正に風土は人間と一体となってお互いに手を携えているのです。
日本の現在の食を見ると地産地消とは言えず、むしろ「遠産遠消」とも言うべきで世界各地から食物を輸入しているのが実情です。わが国の食料自給率40%は図1から分かるように先進国の中で最低であり、自給率は毎年下がってきました。今や60%を世界各地に頼っている現状です。これからは世界的な食糧需給逼迫で安定した食の確保は不可能と思われ国民の食糧安保と健康の観点から国としての緊急課題となっています。
最近地産地消は大ブームになっています。消費者にとって生産者の顔が分かる事は大きな安心感につながり、安全な農産物として信頼できる事が人気の理由にもなっています。
しかし左玄の言う風土論は現代の「地産地消」ブームの一因である安全安心ではなくて、人の健康からの「地産地消」的考えであり、現代の地産地消とは大きく切り口が違う事も認識すべきです。安全・安心が売り物の「地産地消」ですがそれだけではなく、人間の健康と食の関係が「地産地消」です。

図1 先進国の食料自給率

自給率アップ解決策に日本の農業生産性を上げてローコストの農業を可能にし国産農産物の価格を引き下げ、かつ幅広い多くの農業生産を目指すべきと言われて久しいのですが、それで解決するならいいのですが言うほどに簡単ではありません。もちろんその事も大事ですが、それより日本人の食生活を改めて見直しをし、結果として自給率の改善を目論むべきと思われます。
行き過ぎた洋風化の食から本来の日本型食生活に戻る事です。肉中心の食から、より自給可能な魚食中心の食生活や、無駄になっている廃棄食品を減らしたり、地域の食材での食生活や大きくなり過ぎた胃袋を小さくする事は、ほんの50年前の日本人の日本型食生活なのです。
2006年には日本人1日に食べる魚介類は80.2gとなり、肉類80.4gと比較するとついに肉が魚を上回りました。(厚労省『国民健康・栄養調査報告』)左玄が人は穀物食動物であると言いましたが、もう肉食動物になろうとしています。動物性タンパク質を否定するものではありませんが、日本人は近海で獲れる魚を摂取してきましたが健康にかかせない不飽和脂肪酸(EPAやDHA)は鯖や鰯の青さかなに多く含まれているのです。
又世界的食糧危機の観点からも考えるべきです。牛肉1kg育てるのにその6倍ほどの穀物が必要です。ましてや和牛1kgには10kgの穀物が必要です。今や世界では10億と言われる人々が飢餓で苦しんでいます。本来は人の食糧になる穀物が牛等の飼料に化け、その量も人の食糧の何倍もの量を必要とされる事も理解すべきです。

「地産地消」の食生活で人はより健康になり、そして地域の農業漁業が発展すれば地域経済が活性化し地域も元気になり、遠路海外から輸入している農産物が国産に代わり食糧自給率も高くなれば、船の燃料消費などのCO2で温暖化の生活習慣病に病んでいる地球の健康にも大いに貢献するものです。
人のみならず地球の環境と健康のために難問解決の鍵を握っているのは左玄が言わんとした地域の風土に合った食と農業です。
全ての健康と安全と環境は食を巡ってお互いに繫がっているのです。
尚「地産地消」の究極的な取り組みが「自産自消」と言えるもので貸し農園やプランター栽培で、自らが野菜等栽培して食するものが最近増えています。自給自足と同じ意味ですが、自給自足には経済的事由が含まれていて悲哀感がありますが、「自産自消」は安全・安心と健康と言う自分と地域そして地球をも守る新しい生き方概念が最大の動機です。
図2 健康サイクル

1986年イタリヤで生まれたスローフードという食の運動があります。食の運動として歴史上世界に広がった最初のものと言われています。その中身は表1のあるように石塚左玄が提唱した食育・食養道と殆ど同じ要素であり、左玄の弟子達がマクロビオッテイックとして欧米諸国に普及させた食の運動がスローフードより100年近く前に実質的には世界に拡散した食の一番初めの運動と言えます。両者とも共通しているのは①食生活を見直す②地域・伝統を大事にする。(地産地消)③子供時からの教育(食育は家庭教育)です。
表1 食育・食養道とスローフード
提唱者 国と提案時 運動の原点 運動内容
カルロ・ペトリーニ
(1949~ イタリヤ
1986年発足 ① 食文化・地域文化を守る。
② 価値観の転換
③ 本来の食事 ① 地産地消
② 子供の味覚と食育
③ 小生産者支援
石塚 左玄
(1851~1909) 日本
1896年 本の中で ① 病気の予防と健康増進
② 正しい食生活 ① 家庭教育
② 食養道
③ 穀物食
④ 地産地消
⑤ 全体食
⑥ バランス
地産地消に似た言葉に「近くて遠いものを食べろ」という言葉があります。ここで言う近いは地産地消の意味する近くの地域です。遠いものとは、距離を表すものでなくて、生物学的に人間と一番遠い関係にあるものを指しています。つまり遺伝子が人と最もかけ離れているのは植物で、野菜・果実・海草類で、人間と最も遠い関係です。その次は動物類の貝類で以下魚・鳥となり、人に一番近い親戚の食材は哺乳動物の牛や豚となります。ですから「近くて遠いものを食べろ」とは地域で採集される野菜・果実・海草を食べなさいという事になります。せめて貝とか魚までが対象でしょう。左玄が諭した、人は穀物食動物なりと言う風土食の意味を含めた文と言えます。
※ 女子栄養大学の辻村卓教授による旬の栄養

ほうれん草100gのビタミンCは時期により大きく変動しています。12月の旬と9月では4倍の差があります。

食育の祖 石塚左玄物語
11.一物全体食   
左玄は化学的食養長寿論に『なるべく菜類の皮肌を脱除せざるを良しとす』 と書いています。「農産物は生き物であり、例えば皮がついている事もその事で調和しているのだから、農産物の一部分を食しても栄養的に十分でない。健康のためにも生き物全体を食べなければならない。自然界の動物は丸ごと食べている。」と食養会での口癖だったそうです。つまり野菜は皮をむかず、コメは玄米のまま、魚は内臓・骨まで、丸ごと食べる事で生産物の全ての命のエネルギーを貰いそれを人は栄養として吸収すると言う理論です。そして中でも玄米は正に生きている栄養豊富な食物であり、玄米の栄養価値から一物全体食の理論付けをしました。その当時既に精米された白米が玄米にとって代わって主食でしたが、精米され取り除かれた米糠の栄養分を補う程の副食はなく、結果として脚気等を始めとした栄養不足の疾病が猛威を振るったのです。(5月号 石塚左玄の功績と現代への警鐘参照)
糠には多くの栄養に加えて、最近不足がちの食物繊維も豊富です。左玄が特に玄米食を推奨した理由は、玄米は日本での穀物食の最たるものであり、地域で収穫される最良の農産物で(風土食)、糠に含まれる栄養(全体食)を考慮した結果です。
図1. 玄米と白米の栄養

日本食品標準成分表を参考にして100gの玄米と白米の栄養の差を表したのが図1です。
外側の円が玄米の栄養成分で、内側が白米の栄養で玄米に対しての割合で表示されています。両者とも3大栄養素の炭水化物やタンパク質はそんなに差が出ていません。しかしなんと言って違っているのは、ビタミンとミネラルの差です。白米のカルシウムは玄米の半分、燐も鉄も50%以下です。図1にはありませんが、カリウムやマグネシウム等は40%も含まれていません。多くのビタミン類も玄米を白米にする事で大半が失われてしまい、激減しています。ビタンミンB1は白米になると僅か20%になります。80%が糠と一緒に捨てられるのです。ビタンミンB1不足は神経組織にダメージを与え、疲労と手足のむくみが発生し、最悪は脚気病として襲い掛かります。1日3食3膳とも玄米ごはんを食べるとビタンミンB1は1日の目安量の約半分の0.7mgを摂ることが出来ます。同じ量のビタンミンB1を白いごはんで摂ろうとするならば、1日に20膳を食べなければなりません。ビタンミンB1の例ですが、それほどに白米の栄養は見劣るのです。
そして当然ですが、多くの微量要素も白米では消失しています。
又糠の中には食物繊維が多く存在しそれが大腸をクリーンにし、便秘を防ぎさらには今急激に増加している大腸がんの発症予防にも効果があるといわれています。
表1 米と小麦100gの栄養素 (5訂日本食品標準成分表より)
エネルギー 糖質 タンパク 脂肪 Ca B1
玄米 350Kcal 73.8g 6.8g 2.7g 9mm 0.41mg
白米 356 77.1 6.1 0.9 5 0.08
薄力粉 368 75.9 8.0 1.7 23 0.13
玄米が白米に対する優位性は理解できるけれども、小麦と玄米はではどうなのか?比較したのが表1です。3大栄養素はどれもそんなに顕著に差がないのですが、ビタミンB1を見ると白米が最も劣り、玄米がずば抜けています。やはり玄米が優れているのが見れます。

表2 玄米食と食パンの栄養 (5訂日本食品標準成分表より)
エネルギー ビタミンB1
玄米ごはん 100g 165Kcal 0.16mg
食パン   100g 264Kcal 0.07mg
表2から玄米食と食パンそれぞれ100gのビタミンB1の含有量は玄米食が食パンの2倍以上あります。表2はパンの栄養素を検討するのみならず、エネルギーを見ると両者同じ100gで食パンのカロリーは玄米食の1.6倍高い数値になっています。仮に同じ100gの量を食べても、玄米食は100Kcalも少ない事になります。つまり玄米食はパンと比較しても多くの栄養素において優っており、それでいて大変にヘルシーである事が分かります。過剰なエネルギー摂取を玄米食は未然におのずと防いでくれます。

穀物食動物にとっては当然穀物を主として食べる事が大事ですし、弥生時代前の縄文時代から栽培されてきた日本の主要な作物で地域の最適の穀物が稲です。日本の稲作の歴史は2000年近くにも及んでいますが、自然・天候とも手を携えながら国土の環境・健康も守ってきたのが稲です。そして日本では風土の食として絶対的な地位を保ってきたのも玄米です。更にその栄養の面からも前述のように玄米食は鬼に金棒となります。
だからこそ左玄は日本人には玄米を「正食」と言って唯一の穀物食と言っています。
最近は食物の自然色に人気があります。出来るだけ加工せずに元のままで食べようという事です。白砂糖より黒糖等はミネラル豊富で植物繊維が多く含まれるために自然食品と言われて人気があります。色がついているものはポリフエノールが豊富で、抗酸化作用が強いと言われています。私の住んでいる福井の蕎麦は色が黒い蕎麦が普通であり、おろし蕎麦として食べる蕎麦が普通の食べ方です。何故に福井の蕎麦は色が黒いのかと言えば、蕎麦の一番外側の殻は捨てますが、その殻の内側にある黒っぽい甘皮という所を捨てずに麺にそのまま使うからです。籾から籾殻のみを除いた玄米と同様に、越前蕎麦も同様な考え方でなるべく全体食をしようという事です。そしてその甘皮にもルチンを始めとしたポリフエノールや栄養素がみっちりある事は言うまでもありません。尚おろし蕎麦は、大根のすり身にきざみねぎを薬味として使いますが、左玄は蕎麦の不足している栄養素を大根とねぎが補完していると本の中に書いています。
一物全体食とはその食品のあるがまま全体を食する事なのです。例えば魚のあら煮汁も全体食になります。通常食しないあらの部分にも豊富な栄養がたっぷり含まれていて煮汁の中に溶け出しています。魚の脂に含まれていて脳の活性化に役立つと言うドコサヘキサエン(DHA)等は体内では殆ど合成されないオメガ3系不飽和脂肪酸です。魚の目の周りに多く含まれていますが、魚の目を食べるのは容易ではありません。しかし煮汁ならばそれも簡単です。煮豆や煮しめ等の野菜煮汁にも多くの栄養素が含まれていますが、店で販売されている簡単調理などは煮汁がありませんから本来の全体食とは言えません。家庭で料理をするからこそ、栄養豊富な全体食の煮汁を食とする事が出来ます。
蕎麦をゆでると蕎麦麺からルチン等の栄養が溶け出しますから、良い蕎麦店は必ず蕎麦湯を出してくれます。これも知らずの内に実践している全体食です。
果物の皮と果実の間にも栄養は豊富です。りんごも皮をむかずに食べるのが全体食となります。今の時代に左玄の推奨する玄米食は残念ながら実践する事はかなり難しいですがせめてその分副食で十分に栄養を補う事と出来る限り多種多様の全体食で食物からの丸ごと栄養を摂るよう心がける事が重要となっています。そのためにもご飯を中心とした家庭での食が尚一層重要になって来ています。

左玄は本の中で面白い事を書いています。

味噌の大豆は畑のお肉と言われるほどに、大豆アミノ酸である高いタンパク質を含んでいます。味噌汁は肉こそ入っていませんが、栄養学的には肉汁です。
米の糠には前述のように多くの素晴らしい栄養を持っていますから、左玄はやすらぎと言いました。当然の事ですが、白くした米はかすになります。

食育の祖 石塚左玄物語
12.夫婦アルカリ論
石塚左玄が書いた「化学的食養長寿論」は464ページに及ぶ大著で食物と健康等に関する研究学術書です。内容の大半は左玄が独自に作り上げた理論で長寿と食の関連を説いています。簡単に言えば『食事をして栄養を体内で吸収する時、摂取される栄養は食事の中のミネラルであるNaとKのバランスがよって左右される。その二つのミネラルは栄養吸収をする時に重要な役を担っていて、それらの働きはあたかも人間の夫婦のようにお互いが助け合っている。』『加里(カリ)と那篤倫(ナトロン)※1はともにアルカリでよく似た性質で同じような働きをします。赤ちゃんの時は顔を見ても男女の区別が出来ないように、NaもKも両者の相違は分からないが、カリとナトロンが化学反応して化合物になると特徴が出てくる。赤ん坊が成長して結婚すれば夫婦それぞれに固有の働きをするのと同じである。カリ塩は隊長で夫になりナトロン塩は副官で婦となり、あたかも夫婦の如く助け合い働くので夫婦亜児加里論』と自ら名づけました。「化学的食養長寿論」の総11章の内実に9章の中で展開しています。
左玄はノートナーゲル、ロスバハ、ウオルフ等の化学者が作成した栄養成分表を利用し(現代の優れた化学分析とは違って、110年も前の科学の発展途上の時代に海外のデーターを見ながら、苦労をして成分を推定している様子が伺われます。又同じ物でも産地が違えば成分は変わってくる事も左玄は強調しています。)成分表からKが多く含まれているのは植物性食品で、Naが多いのは動物性食品であることが分かりました。
Kを多く含む食品は陰性で飽気があり、Naが多い食品は陽性で塩気の性質と整理しました。
左玄が玄米に注目した理由の一つは、人間や動物の乳はそれのみでも赤ちゃんを大きく育てる事ができるのは、栄養学的にも非常に優れたものであるから、乳の成分に近い食物が良い筈であると考えました。すると山羊乳や牛乳のKとNaの成分量に非常に似ていたのが穀物の中で玄米でした。
(表1 飲食品中夫婦亜児加里差数の比例表) 化学的食養長寿論より抜粋
玄米 大麦 鱈 山羊乳
K 0.20 0.56 0.22 0.16
Na 0.04 0.06 0.59 0・03
K/Na 5・00 9.33 0.37 5.33
K-Na 0.16 0.50 △0.37 0.13
差数 中庸 遠い 近すぎる 中庸

(ここから表参照)さらに左玄が注目したのはK/ Naの値です。玄米の場合丁度5になる値でこの事から陰陽五行※2を自覚しました。そしてK―Naを差数と呼び、カリウムが多くその数字が大きい事を遠いと言い、逆にNaが多くてマイナスになる事を近すぎると言い、玄米や牛乳の値を中庸といって一番バランスが取れていると結論づけました。
左玄は食品の中の栄養素は100%体内に吸収されるわけでなく、食品中のNaとKの構成で栄養の吸収に影響を与えたり、病気の原因になったりするので多くのミネラルの中でも特に左玄はそのバランスが大事であると考えました。だから遠い食品を食べたら必ず近い食品を食べるように、KとNaのバランスを取ることでKとNaが大事であるという事から特に二つのミネラルを取り上げたのです。欧米と違って海に囲まれた日本はNaが多くなりがちであるから,Kを主として食すべきで具体的にはKの多い野菜を多くNaの多い魚と肉を少なくと言いました。又その土地の気候、土壌や風土によっても生産される農産物のNaもKも変わってくるので、地域が変われば当然に食養も変わってくる事になります。それ故に『郷に入りては郷に従え』と主張したのです。病気は食のバランスがくずれたのが原因であるから、個人や病状によってきめ細かく食の内容を指示しました。左玄が開いた診療所を石塚食療所と名前をつけ、患者の食事内容を確かめながら、食の見直しを基本に処方箋を書いたものだから、患者は左玄を食医と呼んだと言われています。
このように左玄の食養はこの陰陽の食品抱き合わせでより栄養が吸収され、病気を防ぐという事なのです。
『西欧かぶれの人が日本人は肉、卵、牛乳などのカロリーの高い滋養物を取らないから欧米に比べ体格も体力も劣っていると言うが例えば水・塩はカロリーが0であるが人間には絶対必要不可欠である。つまりカロリーがすべてでない』左玄の反骨精神が作り上げた理論でもあります。健康診断で最近Na/Kの値のナトカリ比は万病の源である高血圧の目安にされています。左玄の慧眼的思想には驚かされますが、誰よりも早くから、3大栄養素以外にミネラルの重要性を発信したのです。惜しむらくは夫婦アルカリ論が二つのミネラルのみを取り上げている事です。この理論から食で病気を治す食療法を生み出すのですが、それが食医となって行きました。しかしその中には現代から考えて、明らかに間違いであるものもありますし、本人は化学的と言いますが、非化学的事柄も存在します。
当時の日本の低い科学水準や、発展途上の医学の中で左玄が組み立てた理論です。
しかしそのような環境での理論確立は賞賛こそあれ決して非難の対象にしてはならないと思います。左玄の夫婦亜児加里論から、現代社会の我々が学ぶ事はミネラルのNa・Kのバランスのみならずあらゆる成分のバランスを心がけた食生活が必要である事は言うまでもありません。
平成17年に国は「食育基本法」を制定しました。その法律は左玄の訓えを現代版に置き換えて国民の食生活を変え、そして積極的健康増進を図る事にありました。左玄が現代に生き返った瞬間です。だから「食育の祖」と呼称される由縁です。1896年に化学的食養長寿論を書いてから109年の月日が経ちました。
以下は食育基本法の前文の一部です。そこに左玄が言った事が分かりやすくしっかりと載せられています。今世界から注目されている日本型食生活、それは世界一ヘルシーでもあります。この豊かな食の国日本への思いと石塚左玄の訓えを大事にしなければと思います。
※ 食育基本法の前文の一部
『二十一世紀における我が国の発展のためには、子どもたちが健全な心と身体を培い、未来や国際社会に向かって羽ばたくことができるようにするとともに、すべての国民が心身の健康を確保し、生涯にわたって生き生きと暮らすことができるようにすることが大切である。
子どもたちが豊かな人間性をはぐくみ、生きる力を身に付けていくためには、何よりも「食」が重要である。今、改めて、食育を、生きる上での基本であって、知育、徳育及び体育の基礎となるべきものと位置付けるとともに、様々な経験を通じて「食」に関する知識と「食」を選択する力を習得し、健全な食生活を実践することができる人間を育てる食育を推進することが求められている。もとより、食育はあらゆる世代の国民に必要なものであるが、子どもたちに対する食育は、心身の成長及び人格の形成に大きな影響を及ぼし、生涯にわたって健全な心と身体を培い豊かな人間性をはぐくんでいく基礎となるものである。』

※1カリ、ナトロン 本の中ではドイツ語に漢字を当てている。
※2 陰陽五行 全ての事は、それだけが単独で存在するのではなく、陰陽(例えば明暗、天地、男女、善悪)という二つの対立する中で存在し、それぞれが増減をくりかえし、存在するものは五つに分類されるという思想

写真 CD 22-3章A  「化学的食養長寿論」の第3章夫婦亜児加里性質効力論原本